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脱落

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脱落

 繋いでいた右手が滑り落ちて、あとには体温と汗とが残った。私は怒った。契約不履行だ。
 彼は確かにいったのだ、僕が君の蜘蛛の糸になると。私はそれを掴んだ。どうもその糸は私以外には見えなかったようで、略奪するように、あるいは便乗するようにもそれを掴む者はなかった。
 私は安心した。安心してその糸を手に取った。他に誰かその糸を掴む者がいるなら、私はその約束を受け取ることが出来ない。私はきっとずっと誰かにその糸を譲り続ける。空くのはいつになるともつかないだろう。
 そして私の地獄は、いつしか足下遥か遠くに滾るのみとなった。あの炎が私の家だったことを思うとぞっとするくらいに、それは遠くなった。なのに、蜘蛛の糸はまだ中腹にもたどり着かない。まだ私は正常な人間の範疇までたどり着けてもいない。
 思えば、生まれたときからどこかが異常だったのだろう。気がついた時には私は地獄で浮かんでいた。光の差さない場所で生きていた。それを異常と思わずに生きていた。
 蜘蛛の糸を手にしている間だけだ、私が正常だったのは。なるほどそれまでの、そしてこれからそうなるだろう私は異常だ。自分以外はあるはずなのに、それを理解できずにいた。
 私には私の話を聞いているあなたのことが手にとるようにわかる。いや、手に取るまでもない。それは耳から勝手に流れ込んでくるメロディーのようだ。超能力というのではない。ただの「察し」だ。
 相手は鏡だ。自分を映す。誰にとっても。けれど、私の鏡は少しばかり鮮明すぎる。町を歩けば百人、千人、万人の私がいる。そして時折、私に感想を持つ。それを見つめて私は、それを私の私への自評だと誤解する。そのメロディーは相手のものから、いつの間にか私のものになっている。
 そして私は、負の感情を溜め込み始める。人が人に感想を持つときの多くは負の感想だ。気持ち悪い。怖い。うっとうしい。いなくなればいい。死ねばいい。その感想を私のものにしてしまうと、取れていた正負のバランスが負に転がる。負ばかりが強くなり、そして地獄への転落が始まる。正に傾けば天国へ落ちられるのに。地獄と天国は等位置にある。ただ、落ちた衝撃を吸収するマットレスがあるかないか、温度の高すぎる風呂があるかないか、それだけの違いだ。
 私をその熱すぎる風呂から救った彼は、私にとっては敬愛どころか信仰の対象と言ってもいい。正しく彼は仏でありオ天道様であり、神であった。そして私の一番大切な人であった。
 その温かさが今、滑り落ちた。もう蜘蛛の糸はない。頭上の輝きもない。つまり、私に有り余る正の感想を与えてくれた、その上で耳栓を渡してくれた、彼の存在がなくなってしまった。
 彼は私を真人間にする約束をした。契約と言い換えてもいい。それを果たさないで逝くのはルール違反だ。
 私は落ちた彼の手を掴んだ。私のところから蜘蛛の糸を垂らしても、間違いなく彼を救い出すことは出来ない。彼は死んだ。もし地獄に落ちていようと、私のいた地獄とは違う場所だ。糸を垂らすことの出来ない空の向こうだ。私の手持ちの糸は、どうしても上へ行くような指向性を持てない。風に煽られれば消失しかねない髪の毛ほどの極微細なものだ。
 呻いた。喚きはしないのはただ外面のためだけだ。ここが病院の一室でさえなければ、医師がいなければ、彼の家族がいなければ、彼を折ってしまうくらい強く抱きしめたい。喚いて喚いて、もうそのまま壊れてしまえばどれだけ楽だろう。
「嘘つき」
 家族も、医師も、黙っていた。私をまるで汚らしいもののように見据えて、ただ私の呟きを聞いた。薄情、とは言わない。私だって私の父が死のうと母が死のうと、妹が死のうと兄が死のうと、恐らくは娘が死のうと息子が死のうと今ほど激しく悲しむことはない。患者などもってのほかだ。
 私は泣いた。恐らく産声を上げて以来、初めて悲しくて泣いた。気持ちが悪いからじゃない。目に塵が入ったからじゃない。息が出来なかったからじゃない。演技なんかであってたまるか。私は悲しい。私の人生で最も重要だった、そして最も大切だった人物の死が悲しくないはずがない。
 声は上げない。静かには泣いた。けれど、やはりそれも外面あってのことだ。それがなかったら、私は、いったいペットボトル何本分の涙を流したろう。
 やがて、私は彼の抜け殻から離された。私が彼の殻から脱皮するように。
 私は定まらない足取りで病院の外へ出た。輝きの絶えない、太陽の世界がそこにはあった。あの輝きの中に彼がいるのか。なら私はあの爆発のなかへ飛び込む覚悟さえある。なのにその手段ときたら、私の頭の中どころかどんな図書館の中にもありえないのだ。
 私は太陽に唾を吐いた。当然のように私に返ってくる。避けたりはしない。私は私の唾を被る。思い切り目の中に進入する。眩しさと相俟って私の視界はゼロになった。それがいけなかった。
 いつもなら逃げ切れるはずのあいつらの網に、私は簡単に捕まってしまった。
「捕獲しました」
 けれど、と私は思う。けれど、別にいいや。どちらにしろ、私が生きていくべき場所はもうないのだから。

 主に私を蹂躙する眼鏡をかけた白衣の男が満足気に眺めていた雑誌が落ちていた。私はそれを拾い上げて読んでみる。「人間と極めて近い思考と感情、そして言語を持ってはいるが、しかしその姿はまるで神話に現れる怪物のような新生物」の記事が載っている。付近には、彼の写真がある。私が過ごさせられている部屋の写真がある。私の写真がある。
 発見者の写真がある。研究所の内観の写真がある。怪物の写真がある。
 私は少し前、フラッシュを炊かれたことを思い出した。
作品名:脱落 作家名:能美三紀