ワラの心臓
◇◇◇
目前に鈍色の、銀灰色に縁取られた海が広がっていた。
気付くのと同時に、身体が大きく震える。
言葉にも、形にもならない衝動。砂地に一歩を踏み出す。
それは冷厳な冬の海、のようだった。打ち寄せる鉛色の波は酷く重たげで、
視界は彼方まで灰色に霞んでいる。
海は、その奥底に無限の悲哀を抱えているように沈痛で、物憂げだった。
遠鳴りが低く響く。
緑なす豊かな草原を風が渡る際の、葉擦れの音を思わせる波音。
見渡す限りどこまでも続く、果て無き海原────……
周囲に人影はない。
寂寥とした思いがひたひたと胸に満ちる。
時を止めた世界にただ一人、取り残されてしまったような心許なさと孤独
を感じた。その時だ。
「────」
名を呼ばれて振り返る。すぐ後ろに、声の主が立っていた。
「────そこにいたの?」
僅かな足音さえ聞こえなかった。が、それほど驚きはなかった。
目前の景色をその瞳に写しながら相手は、何も答えない。
「?」
開襟の白いシャツに黒いコートを羽織っている。
そのせいか、いつにも増して肌の白さが目に沁みる。
灰色の濃淡のみで描かれた世界の中、唯一の色を帯びたようなその姿。
大理石で出来た彫像のように静かな佇まい。僅かの“熱”さえ帯びてない
ように見えた。
儚く消え失せてしまいそうな相手に、私は一抹の不安を覚える。が、縋る
ように伸ばした私の手が捕らえる前に、相手は軽く身を翻した。
強い風に煽られた襟がバタバタと音を立て、漆黒の髪が舞い上がる。
「見てみなさい、あれを」
「何?あれ?」
相手は頷き、右手を持ち上げて海へ向かって差し伸ばす。その指先が示す
モノを、私は目で追った。
「ああ……あれは」
海鳥だった。白い翼を持つ一群のカモメだ。
灰色の空の下、無造作に砕き、巻き散らされた貝殻のカケラのように点々
と飛び回る。
吹きつける風に惑い、風に集う。羽ばたきは自由で力強く、何者の束縛も
受けない。
甲高く、物悲しい鳴き声が海鳴りに混じって微かに響く。群れの中の一羽
が、奇怪な行動にでた。
「なに、を?」
ついっと、大きくその身が斜めに傾く。と、同時に凍りついたように羽の
動きが止まる。
そのままカモメは力尽きたかのように、海面に向かって一気に失墜した。
私は息を飲んだ。
黒っぽく重たげな飛沫を跳ね上げ、白いカモメの姿は敢え無く海に呑まれ
て消えた。
銀灰色であった筈の水面が、今やねっとりとした漆黒の泥のような物で
隙間なく覆われていた。
忽然と現れたそれの正体が、何であるかはわからない。けれど、そこに
まっさかさまに落ちればどうなるか、容易に想像がつく。
直接的な致命傷にならなくとも、海鳥のその羽ばたきは確実に失われて
しまうだろう。
自殺行為にも等しい愚行だ。しかも静止の声を上げる暇もなく、次々に
カモメたちはその身を投げ出していく。
まるで自ら望んでそうしているようにも思える、カモメたちの奇異な振る
舞い。それ以上、見てはいられずに目を逸らす。
驚きと怒りにも似た哀しみとで、私は顔を強張らせた。
「憐れな姿、ね。どうして……自ら、その翼を汚すの?その身を堕とそう
とするの?あれでは二度と、飛べなくなってしまうのに」
痛ましげに洩らした私の呟きに、何故か相手は自嘲めいた、陰りのある
笑みを浮かべる。
「憐れと、思うか?愚かであると?でも、仕方がない事だ。どうにもしよ
うがない事。彼らには、彼らなりの理由がある。その身を堕とす事も、泥
にまみれる事も。翼と自由を失う事も。それに、もしかしたら」
束の間、相手は躊躇した。が、すぐに思い直した素振りで、淡々と言葉を
継ぐ。
「あれが、『生きる』と言うことかもしれん。お前には、わからないかも
しれんが」
「それは、どう言う意味?」
詰問するように、声が尖るのを私は自覚した。聞き捨てならない響きを、
その口調から感じたのだ。が、曖昧に笑って、相手は何も答えない。
そして海鳥を眺める視線をそっと外した。
「ああ、もう薬の時間だ……取りに戻らないとな」
誰に聞かせるでもなく、そう独りごちる。
そう言えば相手は深刻な病を得、未だ治療を必要とする身だったのだと、
唐突に思い出す。私は動揺し、慌てた。
「大丈夫、ここにいて。薬なら、私が取って来るから。あなたは、行かなく
て良いから」
奇妙なまでの焦燥感があった。切迫した声音で一気にそう捲くし立て、私は
踵を返す。が、背を向けた途端、冷水を浴びせられたように全身が竦み、
硬直した。
凍えた身体の芯に衝撃が走る。
堰を切ったように無自覚の涙が目に溢れ、次々に頬を伝い落ちていく。
私は立ち尽くしたまま、茫然と理解していた。
わかってしまった、からだ。
『そこにいて』と『行かないで』と心から切望した相手が────……
もう、そこにはいない事に。
声にならない慟哭で喉が詰まる。息が出来ない。きりきりと胸が軋む。
絶望と喪失感とで、身体は粉々に砕けてしまいそうになる。
灰色に色褪せた世界が熱を失い、音を立てて崩れ落ちるような錯覚。
崩壊の幻は、そのまま自身の姿でもある。
私は悲痛な叫びを上げる自分の声なき声を、意識の片隅で聞いていた。
そこに、あなただけがいない────……と。
◇◇◇
目が覚めた。瞬きと共に、溢れていた涙がこめかみを滑り落ちる。
夢だった。すぐにそう理解した。だからと言って何の慰めにもならないのだ
けれど。
重い溜息を吐きだし、ベッドから緩慢な動作で立ち上がる。
室内は深い海の底のように静かに青い。カーテンの色を透かして室内を染める
光はまだ弱く淡い。
寝惚けて覚束ない足取りで窓辺に向かい、片側だけカーテンを引く。
白い朝、だ。目を細めて見上げれば水晶めいて澄んだ青い空が薄雲と広がる。
「────」
何かを言おうとして、声にならない。開いた口を空しく閉じて、私は自嘲めいた
溜息を繰り返す。
哀しみが尽きない哀しみ。未だに深く心を囚われたままの自分を憐れにも思う。
こんなにも苦しくて哀しくて辛いのに、どうしてこの傲慢な心臓は鼓動を止め
てしまわないのだろう?
この身体は浅ましくも”生きる事”に執着するのだろう?────……
繰り返しても空しいばかりの問いを、飽きずにまた繰り返す。
正しい”答え”など、得られる筈もないのに。
いっそこの心臓が<ワラ>で作られたモノになれば良いのにと思う。
そうすれば痛烈な哀しみや絶望に手酷く裂かれる事も、痛みを感じる事も無い。
名案だと思って薄く笑みを浮かべる。けれど目前が熱く歪んで溶ける。
堪え切れず、声を殺して私は泣いた。泣きながら、未練たらしく願った。
<ワラの心臓>が欲しい。律儀に脈打ち温かい血の通う心臓は、もういらない。
心もいらない。そうして、もうきっとずっと楽になれる。
痛みを忘れて、哀しみを忘れて、ヒトである事を忘れてしまえれば。
ああ、それでもまた────白い朝が来る。頑なに日常が始まる。
Fin