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真・三国志 蜀史 龐統伝<第一部・劉備、蜀を窺うのこと>

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其の壱 法正、舌を巻くのこと


 西暦213年。
 中国大陸の西に、蜀と呼ばれる地域がある。中でも太守劉璋の治める益州は豊かな土地と守りに適した山林を併せ持つ、天下を窺うには絶好の地であった。その益州を目指す一行の中ほど、前後の兵達に守られるようにして進む二騎の馬。その背に跨った二人の男が、静かに言葉を交わしていた。
「のう、龐統よ」
「何でしょう」
 整った毛並みの逞しい黒馬に跨った男、龐統は隠れた目元を隣の青年に向けた。
「この選択は、誤りではなかったのだろうか」
「……まだそのような事をおっしゃいますかな」
 名馬にして凶馬、見事な白銀の毛並みの『的盧』に跨った青年、誰あろう劉備玄徳である。
 劉璋は太守としては大いに無能であり、民の心は既に彼の元を離れ、新たな統治者を求めている。諸葛亮、趙雲、関羽、そして無論龐統も、後に蜀と呼ばれる国の智謀溢れる重臣は、こぞって劉備を説得し、龐統の説得でようやくこの益州攻めを認めさせたのだった。
 その進言を経て、劉備、龐統、魏延、黄忠ら一行は蜀の地を得るために行軍しているのである。
 劉備はこの決定を大いに渋っていた。彼が気に病んでいたのは、自身と同じ劉の姓を持つ、太守劉璋のことであった。仁を掲げる劉備にとって、同族攻めは非常に心苦しいものだったのかもしれない。だが、民を思えばこそ、ここで兵を挙げるべきという臣たちの説得によって、なんとかこの行軍は始まったのだ。
 だというのに、劉備はまだ渋っているというのだろうか。
 龐統は自身の君主の優柔不断さに内心呆れつつも、今まで幾度と無く繰り返してきた言葉を聞かせる。
「太守劉璋殿は、殿と同じ漢室の血を引いてこそおりますが、殿と違い優秀な臣を用いず、益州の民を苦しめるばかりの無能な男であります。何度も申し上げました通り、この蜀の地に住む民は殿がこの地を治めることを切々と願っているのです。民心が離れた劉璋殿が、いつまでもこの蜀の地を守っていける道理などどこにもございませぬ。仁を掲げ、民を思えばこそ、今蜀を手に入れねばならぬのです」
 龐統の言葉に劉備は苦々しく頷く。
「……それは、分かっているのだ」
 呟くようにそう漏らす劉備。だが龐統は容赦しない。
「天下と劉姓は別物です。同族とはいえ劉璋殿は無能な太守。殿とはその重さが違うということもご理解ください」
「もうよい、龐統よ」
「……御意」
 後から後から続く龐統の言葉を、劉備は遮るように止める。
 その時であった。
「報告です!」
「どうした?」
 斥侯として放っていた小隊の兵が一人、二人のもとに駆け寄ってきた。
「前方に敵と思しき軍勢を発見いたしました。敵は既に陣を展開、こちらの行軍を待ち構えております」
「……龐統、これはどういうことだ?」
 劉備が隣の龐統へと訝しげな視線を向ける。
「敵の規模はどのくらいだい?」
「は、約五千ほどの小隊かと。部隊を展開してはいますが、まともな戦をする布陣とは思われませんでした」
「牙門旗は?」
「劉と法。おそらく、太守の劉璋殿と、法正殿かと」
 そこまで報告を聞くと、龐統は安心した様子で息を漏らした。
「それならば気にすることは無いよ。殿、恐らくは劉璋殿が出迎えに参られたのだと思われます。法正殿は、それに乗じて劉備殿に挨拶をなさりたいのでしょう」
「そうか。では、前方の魏延にも、その旨を伝えてもらえるか? 蜀の軍に出くわしたら私がすぐに到着すると伝えてもらえるよう言ってくれ」
「はっ」
 劉備の指示に頷き、伝令は前方へと駆けて行った。
「……」
「殿、くれぐれもご判断を誤りませぬよう。この戦、我らのみならず法正殿や張松殿、孟達殿の命もかかっております。劉璋殿のこの歓待こそ、我らの好機であると、お忘れなきよう」
 逡巡するような劉備の表情に、半ば呆れたような調子で龐統が注意する。


 この蜀の地への進軍は、蜀の将である法正や張松が、人徳のある太守として劉備を頼ったことが大きい。兼ねてより根拠地とすべき場所を探していた劉備軍であったが、華北一帯には曹操の魏、江東には孫権の呉が居並び、流浪の劉備が得られる土地は限られていた。北と東が押さえられている以上、劉備軍の行き先は西の巴蜀か南の南中の二つに絞られる。
 しかしながら、南中には南蛮王・孟獲を中心とした独自の勢力があり、曹操や孫権ほどではないにせよ大きな存在感を放っていた。また、南中の地は他の地域と気候が大きく異なり、疫病なども多い。民を連れた劉備にとってあまり好ましくはない土地であった。
 その点、この蜀の地は真逆である。
 入り組んだ地形と食物のよく育つ温暖な気候は攻めるに難く、守るに易い天然の要衝である。多くの民を抱えている劉備軍の根拠地として、これほど相応しい地はなかった。劉備の軍師、諸葛亮はそんな巴蜀の地をどうにかして手に入れようと躍起になっていたのだ。
 そんな折、曹操が建設した銅雀台という新宮殿の落成式が盛大に開かれた。この銅雀台の完成により、後漢王朝の都は洛陽、長安から鄴都へと移されたことになる。
 落成式の少し後、蜀の将・張松は蜀を脅かす五斗米道勢力の張魯を、曹操に討たせようと企み、自ら魏への使者に立った。しかし曹操は張松の言葉にろくに耳も傾けず、最後には張松の挑発に憤激して彼を放り出した。
 その帰途の途中、張松は巷で噂になっている劉玄徳なる人物に会ってみようと思い立ち、単身、荊州の劉備を訪ねた。当時、劉備軍は荊州に駐屯してはいたものの、その荊州も孫呉から借り受けていたに過ぎず、近いうちに孫権に返還するようにと呉の重臣・魯粛が訪れたばかりだった。
 劉備が荊州を追われていることは、張松にもよく分かっていた。もともと張松は頭が切れる。だから劉備が、蜀の地を欲しているであろう事は容易に想像がついていた。その蜀の将である自身が突然訪れたとして、劉備がどのような反応を見せるのか、張松はその点に興味があった。
 結果は至って明白。劉備は張松をもてなした。敵対するでも、味方に引き込もうとするでもなく、好きなだけ滞在してくれて構わないと言い、関羽や趙雲、諸葛亮に龐統などの重臣との面会も許した。
 もともと、今の太守である劉璋の臆病さが気に食わなかった張松である。この劉備の器の大きさを前にして、これならば臆病な劉璋や気の短い曹操よりも劉備に蜀を治めてもらったほうがいいのではないかと考えるのは当然である。
 張松は去り際に、借りていた自室に蜀の地図を残した。言葉にこそしなかったが、劉備をはじめとする諸将たちに、蜀を取るよう勧めたのである。
 蜀に戻った張松は、すぐに見識の深い二人の将にこのことを告げた。
 法正と孟達である。
 二人はすぐに張松に賛同し、劉備の荊州攻めを誘引する策を練った。三人は劉璋に面会し、彼が常に気を揉んでいた五斗米道の張魯を引き合いに出した。
「劉備は兵こそ多くはありませんが、将の実力は桁違いです。張魯など敵ではありませぬ。そしてまた、彼は仁を掲げる男にございます。同じ漢室の血を引く劉璋殿の頼みとあらばまず断りますまい」
 というような事を言ってのけた。
 劉璋は大いに乗り気になったが、蜀将の中にも、反対するものがいた。
 黄権である。