反重力の実
部屋の窓からみおろすと、団地の裏側の斜面がいちめん緑の草でおおわれていた。秋はすすき、春はちいさな花々がやさしく開いた。
真名は斜面を見下ろすのが好きだった。
斜面にはまっすぐにコンクリートの階段がのぼっていた。たよりなく細いその階段は、入口も出口も鉄条網つきのフェンスで閉じられている。真名にはなんのための階段なのかまるでわからなかった。
そこをのぼる人はだれもおらず、階段はどんな季節も変わらずただたよりなくまっすぐのびていた。
真名は最近小学校で、よく廊下を歩く。
二組の前を歩く。一歩一歩をそうっと踏み出すように歩いているのに、足音は真名の心臓を一足ごとにつよくノックした。ノック。ノック。
歩きながらこっそりと、窓の奥をのぞきこむ。坂下くんの顔が見える。おもわず走り出してしまいそうな足をとどめながら知らない顔をして歩く。まったく顔色を変えずにそれをやりおおせる。
一度、そうやって廊下を歩いているとき、向こう側からまっすぐ坂下くんが歩いてきたことがある。むこうもひとりだった。三年生の誰よりも背がちいさい坂下くんは、うごきが敏捷なのですぐわかる。
濃紺色のTシャツを着ていた。
すれちがう時、肩が真名よりすこし、下にあった。
全校集会のときは解散になってもずっとそのあたりで友達と喋っていてしかられている。運動会ではリレーのアンカーを走って、トップだったのに転んで三位になってしまった。
すれちがうとき肩がすこし下にある。
青い服が好きみたい。
顔が蒼くなってしまうんじゃないかと思うくらい、緊張でどきどきした。
真名はこのことをまだ誰にも話していない。だれも秘密を守れっこないからだ。誰にもわからないようにこっそりと、まだやりおおせている。まだ。
たぶん坂下くんは真名を知らない。
真名は坂下くんを知っている。
冬の斜面はとてもつまらない。すすきも枯れてしまった。雪はまだ降らない。
閉じられた階段のいちばん下に人影が見えたのは、そんな日のことだった。
そのちっぽけな影は、フェンスをこきざみに揺らして乗り越えようとしていた。真名はいそいで窓を開け、身を乗り出した。つめたい風。がたがたがしゃんという音まで聞こえるような気がした。
鉄条網をものともせずにひょいと飛びおりた敏捷な動きに、心臓をノックされた。急かされるように速駆けになる。ノックノックノック。
真名は窓の桟をにぎりしめていた。
かろやかに走ってくる影。濃紺色のシャツ。深い深い海のまんなかの色だ。何か赤いものを指先でもてあそんでいた。
真名が、あ、林檎だ、と気づいた瞬間、林檎が細い指先を離れ、すいこまれるように空へのびあがった。
真名は目をみひらいた。林檎が高く高く飛んだ。まるですぐ目の前にその赤いものがとびこんできたようで、なげこまれたようで、真名は思わず腕を伸ばした。
窓からまっすぐにつきだしたその指のむこうにちょうど、林檎がかさなりあった。
放物線を描いて落ちていく林檎を真名の目は追いかける。数段ぶんをそのまま駆け上がっていた、投げ上げた手の持ち主は、飢えを向いて林檎を受けとめる。そうして、そのまま見上げた。
真名を。
真名をみて、坂下くんが、笑ったのだ。
気がつくと真名は窓の前の床にすわりこんで、とめどなく笑っていた。
右手でしっかり胸もとを押さえた。林檎をつかまなかった指は、けれどたしかになにかをつかんで真名の胸もとにあった。
ただふわりとうかびあがった赤い実と、笑顔とが、ひとつのものにかさなりあって真名の目の前にあった。
心音と同じスピードで笑い声が零れおちていく。真名はこぼれ続ける笑いをおさえきれずに、ぽろぽろと笑った。
(2005/冬)