緋巫女
とある小さな村の、唯一の信仰を守る者でした。
四方を山に囲まれたそこは土地も貧しく、日々の暮らしは決して楽ではありません。
私は人々の日々の安寧を願い、土地の豊饒を願い、神の慈悲と守護を願うのが役目。
私は巫女、だったのです。
私は一匹の猫を飼っておりました。茶色の縞の、どこにでもいるような平凡な猫でした。
私がお仕えしておりました社に、ある日、どこからともなく迷い込んできたのです。
弱々しい鳴き声を上げ、私の足に必死に頭を摺り寄せてくる小さな猫を無下に追い払う
訳にもいかず。
薄汚れた姿を憐れに思う気持ちにも負け、結局は面倒を見る事にしました。
小さな猫はすぐに大きく成長しましたが、いつまでも私の傍におりました。
青い紐に結んだ銀の鈴をその首につけ、私も猫を大切に可愛がっておりました。
村には一つの決まり事がありました。
私がお仕えする社の祭神は大きな一枚板の岩でしたが、それは祭神であると同時に供物
を捧げる祭壇でもありました。
村に日照りや旱魃、水害や飢饉などの災いが起こった折、生贄は捧げられます。
鶏に始まり兎や鹿、更には牛や馬へと生贄は徐々に大きくなっていく慣わしで、災いが
そこで収まればよし、もし収まらねば……
最後には『ヒト』が捧げられました。
神は新鮮な生き血を好む。
故に巫女は神剣で生贄の身を切り裂き、その血を捧げねばならず。
巫女の白装束を真っ赤な血色に染め上げて供物を捧げる私を、人々は『血の巫女』と称し
畏れ崇めました。また時には『緋色の巫女』。あるいは『緋(ひ)巫女(みこ)』とも。
先代から巫女の地位を譲り受けて数年も過ぎれば、やむをえず人を生贄に捧げねば
ならない時も幾度かありました。
が、私は私の役目をただ忠実に果たし、その結果村の平和と秩序は保たれておりました。
裕福でなくとも日々は平穏に過ぎていきました。
それは突然、訪れました。
黒い袈裟を纏い数珠を手にしたその者は、仏教の教えを村に伝えに来た僧侶でした。
彼は言いました。
『生贄を求める神など邪神。今ある災いの源は全てそれにこそある。一刻も早く御仏の
正しき教えに立ち帰り、その忌まわしき神を捨てよ』と。
当時、村は酷い日照りが続き、まともな秋の収穫さえ見込めずにいました。
なのに供物を幾ら捧げても一向に雨も降らず、田畑はおろか川も池も干上がってしまい、
村人達の心は絶望感にほとんど飲み込まれていたのです。
人々は私を裏切りました。
祭神である岩を砕き、社に火を放ち、巫女である私を捕らえて殺そうとしたのです。
殺気立ち血走った目をした人々が、手に手に松明を掲げていました。
村のそこここ、新月が僅かに光を差すばかりの暗闇に点々と炎が走り、逃げた私の姿を
探します。
私は必死に逃げました。力の限り走って、走って、逃げました。
私の猫をしっかりと胸に抱きしめて。
村の外れにある小さな森で、私は震える足を止めました。
これ以上逃れる術などありません。私は覚悟を決めました。
否、最初から覚悟はしていたのです。村人が私を裏切った、その瞬間から。
ただ……どうしても逃がしてやりたかったのです。
「私と一緒にいるとお前まで巻き添えになってしまう。殺されてしまう。だからお前
だけでも、お逃げ。お前だけでも、どうか逃げて。生き延びて……」
首に結んでいた紐と鈴を手早く外し、私は猫に頬擦りしました。
堪え切れず零れた涙が、柔らかなその毛皮を濡らします。
猫は不安げに、か細い鳴き声を一つ上げました。
最後にせめて、と猫を強く抱きしめ、私は声を殺して泣きました。
私は私の役目を果たしていただけ。私に与えられた役目をただ忠実に。
なのに村人は私を責め咎めた。
全ての罪を私一人になすりつけ、自分達は被害者を装った。
私とて僅かも苦しまず葛藤もせず、生贄を捧げていた訳ではないのに。
私は巫女。私にはわかって……予見していました。
もうじきに村人達が私の元にまで追いつき、そして私は彼らに殺される。
凶気の熱に駆られた彼らは少しの躊躇もなく、無情に私の身を刃で切り裂いていく。
そして蛮行の去った後、血まみれの無残な躯と成り果てた私に私の猫が近づく。
隠れていた木の陰から忍びだし、かつての主人の憐れな成れの果てへと。
猫は労わるように、慰めるように、血に染まった私の白い手をペロペロと舌で舐め上げて
いく。
私は巫女。私の血肉には不思議な力が宿る。それは時に恐ろしくも強靭な力で。
私の血を舐めた猫は、同時に私の強く深い恨みと霊力とを飲み込み……
やがて身勝手な村人達に、復讐を始めるでしょう。
私の身代わりとなって。
離れようとしない猫を無理に向こうへ追いやり、私は静かに立ち上がりました。
村人達の気配と足音が、もうすぐそこに迫っていました。
Fin