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雪催い

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彼女はいつも数歩先を歩く。だから彼女と歩くということは彼女の背中を見ながら歩くということだ。彼女は橋の前を通りかかると曲がって橋を渡った。だからそれについて橋を渡る。橋の上はひっきりなしに車が通る。そのわきの人の通る道のほうはあまり人が通らない。いまも、彼女の背中以外の人影は見えない。
 彼女は髪が長い。髪はまとまりがなくくせがなくとても細い。背中をじっと見ているのでつまり彼女の細い髪のこともじっと見ている。見ると触ったときのことを考える。視覚と触覚は直結している。細くくせがなくまとまりのない触覚。
 彼女の靴の尖ったヒールが立てる音は聞こえない。なぜなら車の音が邪魔をしているから。
 橋の下には川が流れている。けれどその音は橋の上までは届かない。聞こえない。足を止め彼女についていくのをやめて橋の下を見た。川はざらざらと流れてやむ気配はないのに音は耳の中に入ってこなかった。ただ車の走る音がする。ごうごうと車が走っている。
 彼女の声が聞こえた。
「どうしたんですか」
 付いてきていないのに気づいた彼女がたちどまって振り返っていた。ああ、川、と口にしている。
 彼女はじつにどうでもいいことをしばしば口にする。彼女にとって思考と言語表現は直結しているようだ。けれどそのつぶやきから意味を素直に取っても、彼女の思考の本当の内容には結びつかない。彼女は、人に思考を伝えるために呟くのではないのだ。ああ、川。
 彼女にそう言われると、彼女がその呟きを口にしてはじめて川が現実化したように思う。いつも彼女の呟きを聞くとそんなふうに思う。それまで川は(どんなものでもそれまで一人で見ていたものは、)幻想上のものだった。彼女が口にしてはじめて、それは一人の世界を超えて現実のものとなる。ああ、川。
 止まった彼女は、数歩以上に離れているその距離のまま、川を見おろしている。見おろして、なにか呟いているが、その声は届かず、さっき聞こえた呟きは、実はふつうの呟きではない声量で語られたことに気づく。言っていることばがききとれないので、彼女のそばまで歩いて行って並んで川を見おろした。何を言ったの。聞くと、彼女は微笑みを向ける。何。彼女は指さす。
「魚が」
 ああ。
 ぱちりと魚が跳ねた。ああまた、と彼女は嬉しそうに呟いた。魚はぱちりと勢いをつけて跳ね上がり、おちて水面下にまた戻った。やはり音は聞こえない。水面をどんなに見つめても、耳の中を通り過ぎるのはごうごうと走る車の音だけだ。ごうごうごうごう。
 とじこめられたような心地で、しばらくその音をじっと聞いた。そのほかに聞く音がない。彼女はああまたとしゃべった後静かになった。近寄った意味がないのでしゃべってくれないかと思う。世界を現実化してくれないかと思う。ごうごうごうごう、車がどこかへたどり着こうとしているのに、立ち止まって、川がどこかへ流れていくのに、立ち止まって、ふたりで。
 水面をじっと見つめていた。
 流れる水の音はみているだけでは聞こえない。音を想像しようとするが、できない。どうしてできないのだろう。じっと水面を見た。魚がまた跳ねないだろうか。魚が跳ねたら彼女がまた声を出すだろうなにか話すだろう、水面を見ていた。
 ごうごうごうごう。
「空がきれいですね」
 わたし、秋の夕方の空って好きです、と彼女は言った。
 川からまっすぐに目を上げていくと、ずっと流れてくる川が曲がって右へ流れていく向こうにビルの連なりが見えその向こうに山があり、その向こうに、雲があった。
 雲はうすくたよりなく、山にぼんやりとおおいかぶさっていた。夏の盛りよりずっと薄くたよりなく見える遠い空。頼りなく見える。彼女は、そんなことないですよ、夏よりきれいです、ずっと、と答えた。応答。現実化。
「優しいんです」
 二人で正面の雲を見て、彼女がそう言うのを聞いた。
 優しい雲です。ふわふわした雲も薄い色の空も頼りなく触りづらく見えたが、彼女がそういうのならそうなのかもしれない。髪の毛を触りたく思った。けれど触らないまま隣にいた。彼女の声を聞いているときは車の音が聞こえないような気がする。髪の毛を触りたく思い、そう思ったままで隣に立っていた。
 氷。
 そう、氷が張っているのだと不意に思いついた。空はたよりなくうすく凍っていく夏から冬にかけてゆっくりと凍っていくから空が薄く淡く頼りなくなっていくのだ。
 遠ざけた氷が重みに耐えかねてはがれて落ちてくる。
「雪だ」
 そう言ったら何がですかと彼女が言った。雪? 秋なのに。
「雲が」
 ああそうですか。
 わかった、と、彼女が頷いた。何がわかったのかわからないがまあわかったのならいいのだろう。 首を回して空を見あげる。そんなふうにしている彼女を見ておなじに首を回して空を見上げた。それにしてもこの橋の歩道部分はさっきから人が一人も通らない。本当に雪みたいですねえと彼女の声。ふわふわして綺麗ですねえ。
 てっぺんを見あげる。遠い空。空の氷はさくさくと積もっているそれがだんだんに重みを増して、もうじき剝がれる。しんしん。
 ふる雪。
 ふる雪の。
 さなかに立っていたことがある。しんしん降り積もる雪。雪が積もっていくかすかな音を聞いたような聞かなかったような、ひどく、静かだった。雪の影が街灯にてらされていた。耳をよくよく澄ますと、雪が降る音が聞こえたような気がした。
 雪が、降る音が。

 さら。

 不意に耳の中に何かの音が聞こえた。頭を回して川を見おろした。白いものがひらひらと落ちていくのが見えた。見えた、と、思った。厳格かもしれない。幻影かもしれない、それは雪に見えた。雪?秋なのに。
 白いものが水に落ちて溶けた。そう見えた。溶けたのが見えた、と思った。水面は橋の上からひどく遠い。それでも溶けたのが見えた、と思った。そして音が聞こえた、と思った。
 さら。
「どうかしましたか」
 彼女が見上げてそう聞いてくる。いや、と言い返してそれでもそのまましばらくじっと水面を見つめた。いやなんでもない。耳の中には雪の音が残っていた。水の中に雪が溶けていく音がたしかに聞こえたと思った。耳の中には雪の音が残っていた。水の中に雪が溶けていく音が確かに聞こえたと思った。耳の中に雪の音が残っていた。雪の中に立っているような気がしていた。彼女をじっと見た。何ですかと彼女の声。車の音がうしろで聞こえているのに、もう、邪魔には感じず、ひどく静かだった。
 帰ろう、と言った。
「はい」
 返事が返った。彼女はいつも数歩前を歩く。だから、僕は、いつも彼女の数歩あとを歩く。水面をじっと見る、水音はいまでも聞こえない。けれど耳の中には確かに聞こえているような気がした。
 走り続けていた車がやっと途切れて、一瞬、ほんとうに静かになった、その一瞬に、彼女の軽い靴音が、聞こえた。
 雪の降る音に似て聞こえた。彼女の名前を呼んで振り返らせてそう言ったら彼女は、ロマンチストですね、とわらった。



(2003/秋)
作品名:雪催い 作家名:哉村哉子