8年目の関係
時々思うのだ。もし、人が鶴だったならば、こんな思いはせずに済んだんじゃないだろうかって。
北海道でなければ、ましてや東北でも無い日本の真ん中あたりで、オレンジのグラデーションがかる空を見上げながら、秋月は淋しげに呟いた。机を挟んで向かいに座る東雲は、そんな唐突な電波発言をくれるも視線はくれないままの秋月に、頭が心配だと言いたげな眼差しを投げつけた。しかし、彼の視界は空に独占されているために、気付かれる筈もない。呟きは、東雲を無視して続けられた。
「ありえないよね。男は下半身の生き物だって言うんだよ。そんなはずないじゃないか。むしろ、明実のが下半身生物だと思うんだけどさ!東雲はどう思うよ?」
「とりあえず、女性に対するその発言は、いただけない。というか、ねーよ」
「…うん、確かにオレもそれは言いすぎだと思った」
こういう素直なところが好きなのに、と心の中でひとりごちて、東雲は秋月に倣い、視線を窓の外へと流す。
秋月が女漁りを始めるようになって今月で確か三年目。偶にこんな感じの電波発言が飛んでくるようになったきっかけは、三年前に大本命に浮気されたことから始まった。最初の落ち込みようなんて、それはそれは酷かった。人間不信になりかけて、幼馴染の東雲にすら拒否反応を示して、部屋に入れば出て行けだの、メールをすればアドレスを変えるだの、とにかく酷かった。多分そんじょそこらの女の子より度の過ぎた乙女具合が酷かった。だが、長い付き合いであるし、いつも明るい秋月の傷心しきった姿を見続けるなんて東雲には出来る筈もなく。何とか復活させてやろうと健気にそんなやり取りを何十回何百回と繰り返していた。
しかし、幾度も拒絶され続けるというのは思った以上に傷つく事であり、とうとう東雲自身も心が折れそうになった。
そんなある日、学校へ行くために開けた自宅のドアの前で、彼が制服に袖を通し、馴染の通学かばんを引っさげた腕を前で組んで、仁王立ちしていたのだ。
ついに復活させてやることが出来たのだと、と東雲はうれしさのあまり駆け寄ろうとした。
が。
「聞いてくれ東雲!オレは今日から浮気をモットーに生きていくんだ!」
「…あれから三年か…」
はぁ、と深いため息を吐いたことで回想から現実へと戻って来られた東雲の切ない思いは、秋月には届かなかった。
秋月が好きなのだと自覚できたとき、当の本人はすでに五股をしている最中だった。あんなに清純そうだった黒髪は、茶・銀・金・緑を経て、今現在は赤。ダークレッドどころじゃない、真っ赤だ。最初は「気分で変えてる」と言っていた秋月だが、月日が経つごとに、色が変わるのは相手が付き合ってる子が一人になったときだけだと知ることになる。別に知りたかったわけじゃない。人づてに聞いてしまったのだ。
勿論、当時の東雲はまさか二股どころか三股四股してるなんて想像もしたことがなかった。それまで秋月の女関係にはあまり口出しをしなかったが、それはあんまりだろうと、数年ぶりに怒った。にもかかわらず、あっけらかんとした表情で「お前は俺の宣言を聞いてなかったのか?」なんて、さも当然のことのように言ってくるものだから、こちらが逆に毒気を抜かれてしまった。
そんな秋月の右手には今、三枚の野口が握られている。
東雲の脳裏にふと、今朝クラスメイトから聞いた噂がリピート再生された。
『そういや秋月、昨日フラれてたってマジか?』
『あー、それオレも聞いたわ。吉岡だろ?先週から森川と付き合ってンのバレたんじゃね?丁度二股に復帰したばっかだったのになぁ』
『ってことは、また…』
「俺はパシリなんてやらねーぞ」
「黙れ。昼休みのじゃんけんで負けたくせに」
「最初はパーなんてふざけたルール吹っかけて来たのそっちだろうが!」
「あー、はいはい。何てんだっけ、こういうの。あ、アレだ。負け犬の遠吠」
「黙れ」
「口悪ぃと松本ちゃんに嫌われちゃうよー」
「なっ」
東雲の動揺に気を良くした秋月はにやにやと笑っているが、彼の言う松本ちゃんこと松本奈美とは、東雲とはまた別の幼馴染だ。幼なじみというより、腐れ縁という単語の方が相応しい。彼女には秋月のことで相談に乗ってもらっているのに、なぜか秋月は、東雲が松本を好きなのだと勘違いしている。
「だから前にも言っただろ、俺が好きなのは松本じゃないんだって」
「だーからさー、前にも言ったじゃん、お前が好きなのは松本ちゃんなんだって」
「あれは酔ってただけだ」
「違うね。酔っ払ったら人間みんな本性出るの。素直になるの。わかる?」
「わかんねぇ。マジわかんねぇ」
「…素直じゃねーなぁホント」
かわいくねー奴、なんて呟きながら、手持ち無沙汰故か、3人の野口はどんどんターバン状態にされていく。それをもってコンビニに行けというなら、断固として断らなければならないなと、東雲は逃げる準備として密かにカバンを掴む。
「大体さー、お前が松本ちゃんと付き合わねーから俺もフられてんじゃん」
「俺のせいかよ」
「お前のせいだよ。だって明実のやつ、オレが本気じゃ無いって言って泣き出すんだぜ?どう考えてもお前のせいじゃん」
「いや、どう考えてもそれ秋月のせいだから」
「東雲、酒飲め。じゃないと話になんねー」
「お前は冷水かぶって来い。じゃないとまともな話ができない」
暫くの間の後、ため息がシンクロした。
ため息を吐きたいのはこっちのほうだと、東雲は心の中だけで二回目のため息を吐く。
だがその油断が命取りとなったのだから、秋月は東雲がカバンに手をかけたことに気づいていたのだ。
「じゃ、オレこれからバイトなんで、野口よろしくー」
「あー、もうそんな時…はぁ!?」
そうして思うに、たぶん秋月は前世でイタリア兵だったんじゃないだろうか。
「買ってきたらオレん家のポストに突っ込んどいてくれよな。また明日ー」
「あ、ちょっ、おい秋月!」
撤退スピードは、昔から人並み外れていると、有名だった。
「……はぁ」
東雲は深く溜息を吐いて、机の上を見遣る。
彼の残したターバン野口が、勝利の笑みを浮かべているように見えたのは、目の錯覚だと信じたい。