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八十 八重歯
八十 八重歯
novelistID. 10722
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すももの思い出

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それは、ある日差しのめっぽう強い晴れた日の午後のことであった。私は、いつものようにランドセルを玄関へ投げ出してそのまま砂浜へ駆けてゆくつもりであった。しかし、その日は、何となくそうできなかった。玄関をあけた瞬間の家の空気が凍り付いていたからだ。居間を半身で覗き込むようにつま先を立ててあたりを窺うと、はるか突き当たりの奥の勝手で、水色に大きな白玉があしらわれているワンピースを来た母が、私の気配に振り返りもせず、懸命にそれこそと取り付かれたように、いつもより大きな軋轢音をたてて流しの洗い物をしていた。その力の入った両肩が極端にいきり立っていた。「何か変だぞ。」と微妙な空気を敏感に察知した私は、首をかしげながら居間へあがると、そこには、父がいた。奥のソファーに座った父は、目をつむって天を仰いでおり、所在無さげに、ソファーの手もたれを指でこずきながら、口を大きく開けては閉じていた。あごをならすようなその父の姿は、朝帰りの父が母に罵声を浴びせられながら時折とっていた仕草でもあったが、逃げ場の無い動物の不完全な感情の処理のような、一言で言えば醜態であった。微妙な静けさに、理由のわからぬまま状況だけを掴まえることができたものの、どうしていいかわからぬ私は、ソファーの前のテーブルの横にあぐらを掻くしかなかった。ばつの悪いところへ飛び込んだことになすすべも無く、無意識にゆっくり体を揺らし、頭をゆっくり振っては無為な時間を過ごすことを余儀なくされた。消されたテレビのブラウン管がしょぼくれた自分を映し出していた。と、そのうち、無言の母がかごにすももを積んで持ってきた。運ばれてくるすももは、険悪な中の一服の清涼剤のようで、この空気に合わないながらも、ただ一点の家族のきずなをこうこうと燃やし続けているかのような、小さな赤紫をしていた。すももはすもも家庭内のいざこざはいざこざという、問題を先送りして良しとする処世が、家族というひとくくりにされた小さな集団のなかで、恐らく最良の延命策であったろう。生き続けるという現実が、机上の理想を凌駕できているぎりぎりのところで、疲れ果てるらくだへの最後のわら1本の重荷をかろうじて残せていたのかもしれない。そのころは、お互いに。
水滴が少しついていたすももは、居間の濁った空気を浄化してくれそうなほど、赤く映えて綺麗で敬虔ですらあった。そのうちの一個が、不似合いな世俗にまみれたごつごつした父の手にひったくられやおらひと時が流れた。「おいしそうなすももだ。」硬直した空気の縛りをほどいてくれそうな気もして、「手を出してみようかな。」などとのんきに考えていたそのときだった。綺麗に積まれたすももは、突然かごから飛び出し、ばらばらになって宙に舞い、あたりに散らばり落ちてしまった。父は、いったんかじりかけたすももを、テーブルへ投げつけると、小さなテーブルごとそれらを蹴っ飛ばして、ひっくりかえしてしまっていたのだ。と、同時に、何かぶつぶつとつぶやいた父は既にたちあがっていて、けり足の踵をそのまま返すように玄関へ向かってどしんどしんと歩き出していた。「え、どうして。」何だか状況が飲み込めぬ私の目に、畳に転がされたすももが、鮮烈な赤紫に獰猛な父の歯跡をくっきりと見せつけたまま飛び込んで来た。呆然とする私の側で、母が、「おまえ、こんなときは、追っかけるもんだよ。」と呟やき、そして父を追って裸足で外へとびだした。私も、母の後を追い、裸足で表へでて、「おとうさぁん、おとうさぁん。」と、二人で呼び続けた。 父は、やはり裸足で、拳を固めて、類人猿のように、大地にやつあたりしながら歩き続け、やがて小さくなって消えた。そして暫く帰って来なかった。後で聞くところによると、父が通う賭場へ母が乗り込み、トランプだか花札だかの道具を滅茶滅茶にして来た直後のことであったらしい。
 あれから、四十年、私は現在の父の居場所を知らない。今の父の状況にはさほど興味はないが、あの暑い日の記憶は消えることが無い。スーパーへ行って、おいしそうに積まれているすももに手をかけることもなんどかあったが、未だに、食する気になれないでいる。あの日、ひっくりかえされたスモモに刻まれたくっきりとした父の歯跡、「おまえ、こんなときは、追っかけるもんだよ。」といった母のあまりにも冷静な一言、裸足には痛いほどの炎天下の地面の灼熱間、これらが、まだ、自分の中で整理されないでいる。幼い日の視覚、感覚、触覚の衝撃が中枢で練られ、かなり長い時間ねかされているが、いい塩梅へ昇華されていないのだ。
現在の私は、三人の子の父となり、家庭の中で、男であるがゆえのある種の共犯者意識さえ持てるようになった。父の気持ちも何となく理解できないわけではない。しかし、今でも、すももを食することができない。スーパーなどで、何度か手に取ることもあったが、それでも、じっと、光沢のある赤紫の艶っぽい肌に魅せられたとたん、胸の真ん中がこらえられないほど熱く、すっぱくなってしまい、すももを食する気分にはなれないのだ。
作品名:すももの思い出 作家名:八十 八重歯