忘れ物
「タン塩とカルビとロースと」
「あ、ビビンパ食べたい。後、ビール」
「ビン?ジョッキ?」
「中ジョッキ」
「じゃ、中ジョッキ二つ。あ、ビビンパは一つで。後、野菜の盛り合わせもお願いします」
「えー」
「えーじゃない!好き嫌いすると、大きくなれませんよ!」
彼の言葉に、私は思わず笑ってしまった。
中ジョッキが目の前に置かれ、私は軽く持ち上げると、
「こういう時って、何て言うの?乾杯?」
「じーさんの法事の時は、献杯って言ってた」
「ケンパイ?初めて聞いた」
「俺もだ」
「ん、じゃあ、献杯」
私は、ジョッキを目の前まで持ち上げると、一気に半分ほど飲み干した。
三年前の今日、私の恋人が亡くなった。
この店で食事をした後、横断歩道を渡ろうとして、飲酒運転の車に轢かれて。
「ほら、もう焼けてるぞ」
「えー、ピーマンやだー」
「やだじゃない!食えっ!!あっこら!!人の皿に移すな!!」
「あんたこそ、キムチ食え」
「俺が辛いの苦手なの、知ってんだろうがっ!!」
あの時、私は先に横断歩道を渡っていた。
私が忘れた携帯電話を手に、彼は走ってきた。
『待って!!忘れ物っ!!』
それが、最後に聞いた、彼の声。
「ビールお代わり」
「えっ!?もう飲んだの?早くないか?まだビビンパきてな」
「ビールっ!ビールっ!」
「・・・分かったよ。すいませーん、中ジョッキお願いします」
彼は、恋人の友人。
抜け殻のような私を、彼は一生懸命慰めてくれた。
現実を受け入れられなくて、怒りをぶつける私に、飽きずに付き合ってくれた。
「ここのビビンパ美味しいよ?食べないの?」
「「バ」じゃなくて、「パ」なのが気に入らない」
「何が」
「ビビン「バ」じゃないじゃん」
「・・・・・・」
「あっこら!いらねーって言ってんだろうが!!俺の皿に乗せるなっ!!」
「おいしーんだって」
「いらんてっ!そのモヤシが辛いんだよ!!」
三年前の今日、私は、恋人と向かい合って座っていた。
そんなつもりじゃなかったのに。
ちゃんと、言葉を用意してきたのに。
「すいませーん、網換えてくださーい」
「あ、ネギ塩カルビ忘れてた。後、ロースお代わり」
「よく食べるなー」
「後、中ジョッキ」
「えっ?お前飲みす」
「ビールっ!ビールっ!ビールっ!」
「・・・分かったよ」
他に好きな人ができたんでしょう?
私のことは、気にしなくていいから。
気持ちがないまま、付き合ってても、意味ないじゃない?
大丈夫、応援するから。
「そろそろ締めにするか?」
「ん、じゃあ、タン塩と、カルビはタレとネギ塩。後、中ジョッキ」
「お前な」
「ビールっ!ビールっ!ビールっ!ビールっ!」
「分かったって!」
『嘘も隠し事も嫌いなの、知ってるでしょう?何で隠すの?』
『やめてよ。そんなの聞きたくない』
『自分が悪者になりたくないだけの、言い訳じゃない』
『聞きたくないし、これ以上あなたと話したくない』
『さよなら』
「・・・今でも、考えちゃうんだよねえ」
「何を?」
「彼が、横断歩道を渡りきってたら、どうなってたんだろう?」
彼は、黙って聞いてくれる。いつでも。
「渡りきって、追いついてたら、何て言ったのかな?って。何を言いたかったんだろうって、つい、考えちゃうんだよね」
不意に視界がぼやけたので、私は慌ててそっぽを向いた。
「・・・やり直そうって、言っただろうな」
私は、彼の顔を上目遣いに見る。
「だって・・・あいつ言ってたから。『やっぱり、自分には彼女しかいない』って。『気がついてるみたいだから、「やり直したい」って言うつもりだ』ってさ」
肉の焼ける音。隣客の笑い声。店内の喧騒。BGM。
彼は黙って、私を見ている。
「そっか」
私は、頬杖をついて、彼を見つめた。
「そっか。じゃあ、悪者は私の役か」
三年前から、ずっと。
「それでも、やり直さなかったよ、私は」
彼は、黙って聞いてくれる。いつでも。
私は、まっすぐ彼を見つめた。
「私、あなたのことが好きなの」
にっこり笑って、言った。
終わり