FLASH
19、父親
次の日。眠い目で沙織が事務所へ向かうと、広樹が声をかけた。
「おはよう、沙織ちゃん。なんだか眠そうだね」
「あ、おはようございます、ヒロさん。いえ、ちょっと……大丈夫です」
沙織が苦笑して言う。
「鷹緒は一緒じゃないの?」
「はい……昨日はどこかへ出かけたみたいで、帰ってきてない感じでしたし……」
「そうなの? 今日は定時に来るって言ってたんだけど、来ないな……理恵ちゃんも。ああ昨日、何かあったかな……」
「え?」
意味深な広樹の言葉に、沙織が聞き返す。
「あ、あの。昨日の内山って人……」
沙織がそう言いかけた時、広樹は電話を取っていた。
「え、なに?」
「いえ……なんでもないです」
「そう、ごめんね。ちょっと電話」
広樹は電話をかけ始める。
「あ、もしもし……あれ、理恵ちゃん? 僕、理恵ちゃんにかけちゃったのか……え? あ、はーい……」
広樹は電話を切った。すると、すぐに理恵が入ってきた。
「ごめんね、ヒロさん。ちょっと遅刻しちゃった……」
寝不足気味で、少し目を腫らした理恵が言う。
「いいよ……鷹緒は?」
「ううん。一緒じゃないけど……」
その時、鷹緒がやってきた。広樹が声をかける。
「おう、鷹緒。おはよう」
「ああ、悪い。定時に来るって言ったのに」
「いいよ。ファックス、いくつか届いてるよ。いつものように机の上」
「うん」
鷹緒は自分の机へと向かっていった。そこに、理恵が後をついていく。その光景を、沙織はじっと見つめていた。
「鷹緒さん」
理恵が声をかける。事務所では、二人がかつて夫婦だったと知っている者はほとんどいないので、態度もあくまで他人行儀である。
ファックスを見つめながら、鷹緒が返事をする。
「ん?」
「これ……昨日はごめんなさい……」
他の人に見つからないように、理恵がそっと携帯電話を差し出した。昨日、鷹緒が理恵に貸したままの携帯電話である。鷹緒は優しく笑った。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう……」
「ああ」
それ以上は何も聞かず、鷹緒はファックスをまとめて理恵に背を向けた。理恵も、もうそれ以上は何も言わない。
そのまま鷹緒は、慌しく広樹に近付いた。
「ヒロ。俺、打ち合わせに行ってくる」
「ああ。鷹緒……」
広樹が言いかけた。内山が帰ってきたことで、内山と確執のある鷹緒と理恵に心配を抱いているものの、人目もあるのでこの場では聞くことが出来ない。
「うん?」
「あ、いや……なんでもないよ。行ってらっしゃい」
広樹の言葉に、鷹緒が察して苦笑する。
「何もないよ。じゃ、行ってきます」
小さな声でそう言った鷹緒は、沙織と目が合った。鷹緒は小さく微笑み、沙織の背中を叩く。
「頑張れよ」
「う、うん……」
「行ってきます」
鷹緒はそう言うと、事務所を後にした。
沙織の目に映る今日の鷹緒は、いつもと同じように見えて違う気がした。
「沙織ちゃん?」
その声に、沙織はハッとして顔を上げた。するとそこには、沙織の顔を覗き込む理恵の顔がある。
「理恵さん……」
「どうしたの、ぼうっとして。大丈夫?」
「あ、はい。なんでもないです……」
「そう。今日はボイストレーニングよね? その前にとりあえず、奥の部屋に行きましょう」
理恵はそう言って、沙織とともに奥の部屋へと入っていった。
「……どうかした? シンコンが不安なのかな?」
奥の部屋に入るなり、理恵が沙織に尋ねる。沙織は驚いて顔を上げた。
「え?」
「なんか、心ここにあらずって感じだから……」
「そ、そうですか?」
沙織が言う。顔に表れているということなど、考えていなかったのだ。
「落ち込んでるように見えるわよ。何か悩みごとでもある?」
理恵の言葉に、沙織は一瞬戸惑った。しかし理恵の目を見つめると、静かに口を開く。
「あ、あの……昨日、鷹緒さんと会ったんですか?」
意を決して、沙織が尋ねた。
「あ、いえ、あの……昨日、鷹緒さんが出かけるの、気付いたから……」
言い訳をするように、少し焦った様子で沙織が続けて言った。そんな沙織に、理恵は少し驚いた表情を見せた後、静かに微笑む。
「沙織ちゃん、もしかして、彼のこと……?」
少し悪戯な瞳で、苦笑しながら理恵が尋ねた。沙織は困った様子で否定する。
「いえ、そういうんじゃなくて、あの……」
「そう? それならごめんね……でも、もし私と鷹緒に何かあると思って落ち込んだりしてるんなら、それは間違いだからね」
静かに微笑んで、理恵が言った。
「……でも、お二人は、夫婦だったんですよね?」
「そうだけど、もう昔の話よ?」
「……鷹緒さんは、そうは思ってないんじゃないですか?」
沙織の言葉に、理恵が驚いた顔を見せる。
「……どうしてそう思うの?」
「だって……ヒロさんが前に、鷹緒さんは恋人を作らないって言ってたから……」
「……だからって、私と別れたことが原因で、恋人を作らないんじゃないわよ。もちろん、それがきっかけで、私がトラウマ作っちゃったのかもしれないけど、彼がまだ私を好きでいてくれてるとか、そういうのはないわよ」
理恵が言った。沙織は切実な目で理恵を見つめる。
「どうしてそう思うんですか? 鷹緒さんが、理恵さんを好きでいることはないなんて、どうして断言出来るんですか?」
勢いをつけて沙織が言った。理恵はそれを聞いて、静かに微笑む。
「……出来るわよ。あんな別れ方したんだもん……昔から、私たちは水と油で、しょっちゅう喧嘩ばっかり。もうそれが楽しいと思える子供じゃないわ。沙織ちゃん、やっぱり鷹緒のこと……?」
理恵に尋ねられ、沙織は小さく頷いた。
「……そう」
見守るような瞳で、理恵も頷く。沙織は重い口を開いた。
「なんか……気になって。もっと知りたいって思ってるだけで、好きかどうかなんて……」
「気になるってことが、恋なんじゃないのかな」
その時、電話が鳴った。
「あ、ごめんね」
理恵は電話を取る。沙織はお茶を飲みながら、時計を見た。理恵はすぐに電話を終えて立ち上がる。
「沙織ちゃん。私、打ち合わせが早まっちゃって、もう出かけなきゃならないの……ボイトレは、一人で行けるかな?」
「あ、はい。大丈夫です」
「そう。ごめんね……ボイトレが終わったら、事務所の誰かに迎えに行かせるから、その後は夕方までスポーツジムね。それが終わる頃には、私も事務所に帰ってこれると思う。夜にはシンコンの打ち合わせがあるから、沙織ちゃんも一緒にいてね」
「わかりました」
「じゃあ、行って来ます」
理恵は慌しく事務所を出ていった。
残された沙織は、上の空でいた。理恵が鷹緒と関係はないと言っても、説得力がない。聞きたいことの半分も聞けず、沙織の不安は最高潮に達していた。
夕方。スポーツジムにいた沙織を、牧が迎えにきた。
「いいんですか? 牧さん、事務員なのに、私なんかを迎えにきちゃって……」
事務所に帰る途中で、沙織が尋ねる。牧は笑って答える。
「いいの、いいの。たまには私も、日の光を浴びたいもの」
「あはは。もう夕日ですけどね……」
「あーあ。今日も事務所に缶詰めの日だったわ」
「でも、一人でも帰れるのに、すみません」