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月が浮かぶ部屋

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 思い返せば、一番初めにその温もりを抱いた時から、決めていたのかもしれない。
 ただただ愛しく、慈しむ為の存在のように思った。
 この生命を脅かすことやものがあるなら許せない。許すわけにいかない。
 仮にそれが、自分の存在だとしたら尚更だった。

 くりくりとした丸い目が印象的な姪っ子は、愛らしかっただけの児童から、一人の少女になった。もう痛むことも傷つけることも経験して、顔立ちが少し大人に近づく。
 自然にだんだんと手を繋ぐことも少なくなり、少女は一人でも迷わず歩けるようになって、そこでやっと気付く。
 
 簡単に言えば、恋をしている。


「ねえねえ、陽おじさん」
「うん?」
「見て、電灯。月みたいじゃない?」
「あー……見えなくもないね」
 天井で白く光る丸い電灯は、確かに少し月と似た神秘をちらつかせている。
 すると少女は妙にはしゃいで、楽しそうに話した。
「ね、でしょ? この部屋はおじさんの国なんだよ。おじさんは王様」
 だからすごくやさしい国になるね。
 おじさんはあたしの知るかぎり誰よりもやさしいというのが少女の口癖である。
 それに対して、俺は笑ってありがとうと言うのが常だ。
 やさしいと言われるのは純粋に嬉しいし、何よりそういう人間でありたかった。できるだけ多くが笑えるといい、と言ったことがある。本心だった。誰もが誰かにとっては愛しくかけがえのない命であるから、心配をするのが当然だと信じている。
 どれだけの人間が綺麗事だと笑おうと、少女だけが「やさしいね」と言ってくれれば十分すぎるほどだった。

「おじさん、あたしもこの国の人間になれるかな」
 簡単に言えば、恋をしている。
 二回り近く離れた血縁の少女がどうしようにも愛しい。
「きっとなれるよ」

 好きだ、と伝えることも、少女の心を確かめることもできない。けっしてしないと決めている。
 この先の生涯少女だけを愛し続けたとしても、誰にも教えないで体と共に焼く。

 万が一にも少女が俺を好きだと応えてくれたとして、俺はそれが怖くて仕方ない。
 それは、少女からたくさんの可能性を奪ってしまうことなのだった。
 俺と生きるばかりに、少女は手放しにおめでとうと祝われることも、綺麗なドレスを着てケーキにナイフを入れることも、ありふれた普通の家庭を築くことも、失ってしまう。

 少女はよく笑った。些細なことで口元を綻ばせる。
 その時の少し色づいた頬や柔らかく弧を描く唇を、何を捨ててでも守りたかった。
 自分のことはいい。
 誰に何を言われようと構わない。
 だって好きなのだ。仕方がなかった。
 ときどき、途方に暮れたような気持ちでそれを考える。


「だったら、そのソファは王様の椅子だね」
 俺が座っているくすんだ若葉色のソファを指して言う。
「それだとりこが座れないよ」
「うーん、残念」
「……それなら、りこをこの国のお姫様にしてあげる」
 甘やかしても甘やかしても、まるで底が無いみたいだ。
「ううん、あたしは王様に仕える人がいい」
 しあわせそうに笑みながらそんなことを言う。
 カーテンから漏れた光に照らされて、小さな埃がきらきらと光り、消えていくのが見えた。
 星のようだ。
 そんなことをふと思って、ああカーテンを開けていなかったと気付く。
「じゃありこさん、カーテン開けてもらえますか?」
「王様のご命令とあらば」
 数秒後にこのやり取りがたまらなく可笑しくなって、ふたりでくすくすと笑った。

「カーテンを開けるのと閉めるのは、りこの仕事にするよ」
「もっと色々できるよ! 洗濯も掃除も、料理だって練習中だもん。あたしのスクランブルエッグが絶品なの、知らないでしょ」
 十四歳の少女はむっとした様子で次々とできることを並べた。
 その様子に、自分でも知らずに微笑んでいた。
「カーテンを開けたりするのってすごく大事なんだよ」
「どうして?」
「カーテンを開けるときにこの国に朝がくるからだよ。だからりこがいないと、この国は朝も夜もこないままなんだ」
 俺に仕える可愛い少女は、まだ幼かった姪に合鍵を渡した理由も、少女の大好きないちご味の飴が尽きることなく置いてあることも、知らないんだろうなあ。
 知らないでいい。そんなことどうだっていいんだ。
「わかった、あたしの仕事はそれにする」
 だからずっとそうして笑っていてくれ、しあわせになってくれ。俺の知るかぎり、誰よりも。


 この部屋は、外の世界と比べたら足りないものだらけの国だ。
 けれどここに俺のすべてがあった。お気に入りの家具たち、少女が好きだと言ってくれた香水、いちご味の飴、王様の椅子。
 りこ、君がいてこそだ。
 口にはしない、言葉にはしない。そうすれば酸素に触れて錆びることもないだろう。
 君のいるこの国が、俺のすべてだ。

「さありこ、朝ご飯まだでしょ? トースト焼くからおいで」
「うん、二枚ね! イチゴジャムも」
「はいはい」
 満たされすぎていて、溢れてしまいそうな朝を迎える。




作品名:月が浮かぶ部屋 作家名:こはな