水相-涼-
池のほとりには、男がいた。池の淵に腰を掛け、足をその水に浸している。下に落ちた視線は杭でも打たれたかと思うほど動かない。
音はしない。この男一人がいても、なおしない。しない、のか、それともこの男が居るから音がしないのか。
男は足の指に藻が絡むのを、これ以上はない沈痛な面持ちで見つめている。
(水は嫌いではなかった、か。)
男は問い掛ける。
(雨は、嫌いではなかったか)
無音。停止した空白が時間を追いかけて埋めていく。
男の着物の裾は池の水に浸かってしまって、白旗のように揺らめく。
池のほとりには柳の新葉が柔らかくしなだれていた。萌え始めたばかりの葉がまばゆい光をその身に受けて黄金に輝き、風とポルカを踊っている。高く、青い空を背景に雲がつぎつぎに描いては消していく絵画。太陽は、その様子をありとあらゆるものの中心から眺めていた。そう、今日は誰もが踊り出したくなるような晴天だった。
しかし、男の白い着物は濡れている。淡い栗色の髪も、今にも透けてしまいそうな白い肌も、ぐっしょりと。まるで、さっきまで池のなかにどっぷり浸かっていたかのように。
あめんぼが水上を滑っていく。素早く、一瞬の一滑りで水面の様相を変化させていく。時間を軸にした転位の軌跡。男の視線はそれにも動かない。何も見えていなくたって、もう少し反応するだろう。時間軸そのものがずれているみたいだ。
(繋がれるのは嫌いではなかったか)
次々と溢れる問いは、こぼれてしまった水と変わらない。誰も拾うことなく、ただ下へと流れる。答を待つ間も意味もなく、流れては、落ちていく。
男は池から出ないだろう。誰かを待っているわけでもない。待ちたい人も、きっともういないのだ。
ざああ。雨音のような音を立てて、木々の葉が風に揺れた。解き放たれた音が池のほとりに溢れる。子どもの笑い声が風に混じった。もう学校が終わる時間だ。
男は、動かない。
男はまだ、雨の中にいる。