伝えてほしいこと
あんまり長く生きていたものだから、話すことがたくさんありすぎて、困ってしまうわ。
実はアナタにお願いがあるの。
わたしをかわいがってくれたお父さんとお母さんに伝えてほしいことがあるのよ。
ああ、でも、まずわたしのことをおしえなくちゃね。だって、アナタは知らないもの。わたしのこと……。
わたしの名前はマーサ。もうおばあさん猫よ。歳は……百歳。人間の歳でいったらね。
わたしは郊外の静かな住宅街に老いた夫婦といっしょにすんでいるの。
赤ん坊の時から二十年とちょっと。いつのまにかわたしのほうがふたりの歳を追い越しちゃったけど、わたしはふたりを、「お父さん」「お母さん」って呼んでいるの。
もちろん、ふたりには「にゃあ」としか聞こえてないんだけど。
もうすっかり体力がなくなって、外に出るのもままならないの。ガラス越しに外を見ているだけで居眠りが出ちゃう。だって、目がかすんでみえないんだもの。
動くのが面倒だから、その場にじってしているだけなんだけど、そんなわたしを見て、お父さんとお母さんは言うのよ。
「マーサは外が懐かしいんだね」って。
でも勘はよけい鋭くなったみたいでね、人の歩く振動で、だれが、どんな気持ちで歩いているか、わかるのよ。
だからこの頃、お母さんのようすがおかしいのに気がついた。
お母さんは、いつもと変わらないふりをしているけど、お父さんがちょっとでもいなくなると、ぱたぱたと忙しく歩き回る。時々、わたしの顔を見るとはっとして目をそらす。
あわただしく引き出しや扉を開け閉めする音。捜し物? 何か、なくしたのかしら?
お母さんに声をかけても、わたしのことばはわからない。
「どうしたの? マーサ。ごはんほしいの? 今食べたばっかりでしょ」
なんて、わたしは認知症じゃないわよ。
きっとあとでお父さんに言いつけるに違いないわ。わたしがぼけて、食べたことを忘れたって。ま、いいけど。
そんなある晩のこと、わたしはいつもお父さんと寝るのだけど、その日は居間で寝ちゃって夜中に目が覚めた。
ひとりぽっちはさびしいから、お父さんのところへ行こうと思って、ゆっくりと床に降りた。
その時、かすかな振動を体に感じたの。悲しい、切ないような。
ああ、お母さんだ。お母さんが泣いてる。こっそりと肩をふるわせて、声を殺して。
わたしはお母さんのそばに寄っていった。
「ああ、マーサ。起こしちゃった?」
そうして抱き上げられた時、お母さんの心が、すうっとわたしの心に入ってきた。
お母さんの悲しみは、とても大切なものをなくしたから。
こんなとき、わたしが役に立ってあげないと。今までの恩返し。
朝になるとわたしは、家のあっちこっちを探し回った。お母さんの大切なものを見つけるために。
そうして、見つけた。洗濯機の後ろから。それをくわえて、お母さんのところに行こうとしたとたん、目の前が真っ暗になった。
体が動かない。
だめよ、こんなところ、誰かに見られちゃいけない。「その時」を迎えた猫は、誇り高く、静かに去っていくものよ。そう思うのだけど、力が抜けていく。
「マーサ! しっかりして!」
お母さんの声がかすかに聞こえる。
さよなら
小さく鳴いてお別れを言ったの。
「ありがとう。マーサ。見つけてくれたのね。最後にわたしのために」
よかったね。お母さん。
その指輪、わたしも大好きですよ。二十年目の結婚記念日に、お父さんからもらった翡翠の指輪。
わたしの目の色と同じだって言って、一番気に入っていたものね。
ごめんね、お母さん。お母さんが外してテーブルの上に置いたとき、わたし、それで遊んじゃったの。転がしているうちに、洗濯機の隙間に入っちゃったのを、そのままにして。
悪いのはわたしなのに。
でも、そのことは秘密にして天国へ行きます。だから、今、アナタにだけこっそりうちあけますね。
そうして、二人に伝えてほしいの。
──わたし、幸せでしたよ。
ええ、ほんとうに──