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兎と男

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 飛びかかるわけでもない、逃げるわけでもない、懐くわけでもない、ただ動かない。意味がわからない。困るしかない。
 何か訴えたいことがあるのかもしれないが、勘弁してくれ、俺はバイリンガルじゃない。兎語も英語もさっぱりなんだ。
 相手の意思が分からず途方に暮れていると、奴の長い耳が微かに動く。あくまで生理的な反応だったらしいが、俺はそれを目にして初めて奴の右耳がイカれているのだと知った。

「おい」

 零れ落ちた言葉にまたも左耳だけが動く。右耳は奇妙な方向に折れて、微かに赤く汚れている。
 駆け寄っても逃げる気配は見せず、意思を感じさせないビーダマの目で俺をとらえることしかしない。ここまでくれば、俺に何かを望んでいるとしか思えなかった。
 横腹にそっと触れると、濡れた毛とぬめりとした感触が気持ち悪かった。奴も小さく震え、痛みを訴える。
 兎について詳しくは知らないが、人間よりずっと骨も体も寿命も細く、柔らかいのだろう。俺なら三日で塞がりそうな傷も、こいつにとっては致命傷なのかもしれない。そう考えたら、じっとしていられなくなった。
 血で汚れ所々が裂けた上着も、こいつを包むぐらい使えるだろう。脱いだそれを兎に被せて、刺激しないようそっと持ち上げる。
 上着ごとそいつを抱えると、俺の胸元にそっと前足を添えてきた。
 ドクドク鼓動が鳴っている。
 微かに、だけど、とても温かい。
 転がっている屑より、助けようとしている俺より、こいつの命がずっと重く、確かに動いていると感じられた。
 もしかしたらこいつは、俺に何か求めていたわけではなく、傷がうずいて逃げようにも逃げられなかっただけかもしれない。
 だが今となってはどうでもいい。胸の中のこいつを助けると既に決めたから。
 大の男が兎を抱えて動物病院へ駆け込むなど笑い話でしかない。帰ったら、留守番している猫に聞かせてやろう。

 俺には、か弱い動物を助ける趣味がある。それを知ったのは、以前猫を抱えて動物病院へ駆け込んだ時だ。
作品名:兎と男 作家名:森丸彼方