墜落と、距離感
そして、その予想は的中したのだ。
この部屋の唯一の出入り口である内開きの扉を乱暴に開けて、彼女はなだれ込んできた。そう、その様子はきっとなだれ込むという言葉で正しいだろう。
「いったぁい…」
彼女の発音だと…「一体」ではなく「痛い」という意味だろう、か。おそらく扉が開くときの湿った打撃音は、彼女が扉に体重をかけたから発生したものなのだ。わざわざ扉にぶつかるようにした理由はなんだろう。それほど急いていたのだろうか。
いや、もしかしたら、痛みを感じなくてはやっていられなかったのかもしれない。
「だろうね」
「ねぇ」
「なんだい?」
ギィ、と音を立てて扉は閉まった。
「この前話してた人、居たじゃん」
「ああ」
「居なくなっちゃった」
「ふぅん」
「あれ、もっとリアクションないの?」
彼女は、今にも崩れ落ちそうな足取りで、応接用のソファに座った。酔っているわけでもなさそうなのに。
ふわりとキンモクセイの香りがこちらまで漂ってきて、
一瞬くらりとした。
香水だ。
「香水、変えた?」
「あぁ、それはあたしが今まで聞いた中で一番大きな反応だわ」
「前はもっときつい匂いじゃなかった?」
「きついっていう言い方はあまりよくないわよ。それだからあんた彼女出来ないの、わかってる?」
「そうだね」
「本当に、あんたはずっと、いつもどおりだわ」
「だから君はここに来るんだろう」
彼女ははいていたヒールを脱いで、足を肘置きに乗せ寝転がった。それから右手をゆっくりと持ち上げ、自分の目の上に落とす。墜落。
「墜落と堕落って、文字が似てるね」
「なにそれ、嫌み?」
「嫌みに聞こえるんだったら、君はひねくれていると思う」
「あっそう」
きっと彼女は甘えているのだ。いつもと同じように。そして、その相手は僕じゃなくても構わないということに、彼女は気づいていない。
ビルの外から、踏切の音が聞こえてきた。僕はけだるさを右方向に流しつつ、仕事机から顔を上げ、椅子から立ち上がる。
彼女は、縋る眼差しで僕を見上げた。
彼女にとって僕は、結局のところ誰かの代用品でしかないのである。しかしそんな事はきっとどうでもいい。
彼女の向かいの椅子に座って、すぐ近くで白い頬を伝い落ちているはずの雫を想いながら、
僕は香水の香りに酔っているのだと自分に言い聞かせた。