画家ならざれば狂人となりて
その六 狂人は画家として還る
それから数日して、叔父のいる病院から連絡が来た。
叔父が自殺したのだった。
夜中に看護婦さんか看守の人が見つけたときには、もうロープで首を括って死んでいたらしい。
叔父はとても文字が書ける状態ではなかったため、遺書のようなものはなかったようだ。
が、部屋の隅には、クレヨンで描きかけの女性の絵が残っていたらしい。
後になって解ることなのだが…
そしてその絵の端には、小さく震えた文字で“きよみ”と書いてありその下に“みぞう”と、サインらしきものが書かれていた。
母がいうには“みぞう”というのは、叔父に画家先生が遇ったとき、その画家先生が叔父の絵を見ていった言葉らしい。
叔父はその意味も知らず、その漢字も知らないままに、気に入って使っていたとのことだった。
そういえば、それを聞くまでは気にもしなかったが、私が何度か描いてもらった絵の端にも、そんな文字にも読めそうなものがあった。
叔父は頭が変になってからでも、その言葉だけはとても大事にしていたのかも知れないと、そのとき私は思った。
叔父の遺体が家に戻って来たとき、一緒に叔父の遺品も戻って来た。
母や祖父母たちは、病院でたくさん見たらしいのだが…。
私はその時に見るのが初めてで、それでも数日前に同じような女性の絵を見ていた。
遺書代わりとなった、叔父が最後に描いただろうその絵は、間違いなくあの時に描いてくれた女の人の絵だった。
そして叔父の荷物の中には、病院で描いたスケッチブック以外にも、いつ描いたのか解らない古い絵が一緒に入っていた。
そのスケッチブックには、いろいろな表情の同じ女性がクレヨンで描かれていたが、やはり文字はハッキリと読めるものではなかった。
しかし唯一1枚だけ、ムシが喰って黒っぽくなっていた紙に、はっきりと“みぞう”と読める文字が書いてあった。
描かれた女性のことは、葬儀の際に九州から駆け付けてくれた、叔父の唯一の友達だったおじさんが教えてくれた。
その女性は、叔父が飯場にいた頃にその飯場で働いていた娘さんで、名前を“清美”さんといい、叔父がケンカで大怪我をしたのも、その女の人が原因だったらしい。
飯場でも叔父は、よくその女の人を描いていたらしい。
そして皮肉にも大怪我をしたそのときのケンカの相手は、その女の人の兄さんだったのだ。
ケンカの原因は叔父とその女の人、清美さんとの駆け落ち。
結局叔父は、それを知った清美さんのお兄さんや村の人たちに、袋叩きにされて頭に大怪我を負ったわけである。
母や祖父母、伯母、そして妻は、そのことは知っていたようだ。
叔父が夢中で描いた女性、清美さん…それは私の妻の母だったのだから。
私はその事実を初めて知り、同時に妻との結婚が反対された理由もわかったのである。
そしてそのとき私は思ったのでした。
その清美さんという女性だけが、叔父がいつも狂人ではなく、束の間でも常人として、あるいは画家として生きるための、欠かせない力になっていたのだと。
そして無名の画家“原田茂”その名がやっと今日、日本画壇に名を残すことになる。
私の従姉妹であり妻でもある彼女は、数カ月前に名誉ある絵画の賞を頂いた。
それも原田茂という、女性では異色の画家名を用いて。
朽ちてしまったが叔父の残した唯一1枚の絵。
その油彩で描かれた彼女の母の絵も、世間に父の才能を知らしめるべく彼女の個展で、密かに一緒に並べながら、今はマスコミのフラッシュの真っただ中に立っていることだろう。
そんな輝かしい妻の姿を、叔父がいたこの病院で私は思い浮かべながら描いている。
彼女が勿体無いからと言って、修復してまで出品したあの絵同様に、私はこの絵の下に「原田茂」とネームする。
私が描こうと彼女が描こうと、それは大した問題ではないのだ。
どちらが描いても同じ画風、それは叔父、原田茂特有の画風なのであるから。
しかし…子供の頃から容姿は別として、よく似ているいわれて来た私。
叔父の狂気はどうやら、あの怪我だけによるものではなかったのかも知れない…。
作品名:画家ならざれば狂人となりて 作家名:天野久遠