叶った恋の続く先
曇天の朝の再会
これは俺とある男、そしてその他大勢のある一日のうちの数時間の話である。
その日は朝から暗澹たる気持ちでタクシーに乗っていた。
空模様も怪しく、今にも降ってきそうな雲の色。
そんな日に、おしゃべりな運転手の車に乗り込まなかったことだけはついていた。そうでなければ、空港までの二時間弱、騒音ともとれる雑音に悩まされ、ただでさえ軽くはない気分を下降させ続けるはめになっていたに違いない。
しかし、そうはいってもラジオの音すら流れない車内は少々気詰まりで、居心地はあまりよくなかった。気を紛らわせようと窓の外に視線を移してみても、朝特有の水分を含んだ灰色の街並み以外に広がるものはなかった。
流れる景色にもそろそろ飽き始め、到着まで一眠りしようと腕を組んだ途端、着信音が鳴る。短い単調な音が五秒ほど続き、懐に手を突っ込んだ直後に鳴り止んだ。
画面を見なくとも誰からかはわかっていた。まだ夜は明けきっていない。
だいたいの予想はついていたが、メールの中身を確認するべく携帯電話に指をかける。
画面には予想通りの名前と内容、迎えに行こうか、の文字。
これまで、妻からの連絡を無視したことなどただの一度もなかった。だからというわけでもなかったが、返事は空港に着いてからでもと、引き延ばすことにした。気づかなかったと送ればいい、なんて意味のない言い訳をしながら。
別れよう、という明確な提示があったわけでも、こちらから働きかけたわけでもなかった。だが、なんとなく互いにそうなるだろうと思っていた。
はっきりとした理由があったわけではない。ただ、互いを必要としなくなった。そのことに気づいてしまった。それだけのことだった。
空港に着いたのは、予定していたよりも三十分以上早い時刻だった。
早朝で道は空いていたが、こんなに早く着くほどではなかった。車もそれほど速度を出していたようには感じられなかった。むしろゆっくりと運転してくれていただろう。乗り込む際に飛行機の時間を伝えたような気がする。となれば、原因はどう考えても自分にしかなかった。
自分ではそんなつもりは毛頭なかったが、気が急いていたのだろうか。どうにも落ち着かず、とうとう早い時間に家を出てしまったのだろうか。
手続きをすませ、搭乗待ち用の椅子の一番端に腰を下ろす。自分以外に座っている人間はいなかった。
搭乗時間までの五十分を潰す方法も思いつかないまま頭を垂れ、ぼーっとしていた、そのとき。
「昔、一日中書庫の中で本に埋もれているという体験をしたことがありませんか」
突然そんな言葉が耳に入ってきた。穏やかな声だった。
慌てて顔を上げ、右側の通路を振り向けば、懐かしいひとが立っていた。
「先輩っ」
「久しいですね」
変わらぬ微笑に虚を衝かれ、思考は停止寸前の大惨事である。
「あ、お久しぶりです」
一気に学生時代に逆戻りしてしまったようだった。
いっぱしの大人を気取っていた自分はもはや跡形もない。彼の前ではどんなつくろいも被った皮も根こそぎ剥ぎ取られてしまう。なけなしの見栄を張ったところで意味など持たないことはわかっていた。