そこにあいつはいた。
其の五.買います、これ。
出張先での会合を終え、定刻で解放された俺は、最寄り駅への賑やかな通りを歩きながらこの日何度目かの欠伸をした。
昨夜、赤ちゃんをフロに入れる手伝いがあるとかで早々に飯田が帰ってしまった後、俺はたった一人の夜をあの家で過ごさなければならなかった。
ある程度正体もはっきりしたし、危害を加えることはないというお墨付きを呼吸するオカルト人間飯田から頂いた訳だから、当然眠れるはず。たとえ今怖くても、いざ布団に潜ってみれば、きっと眠気が襲ってくる……無理矢理そう思いこんで横になった俺の期待は、見事に裏切られた。
時計の針が真上から徐々に右に傾き、真横を向いても一向に眠気は訪れるどころか、窓を叩く風の音や微かに何かが軋む音が響く度、あの少女が枕元をじいっと覗き込んでいる幻覚に悩まされ、俺は結局まんじりともせず一夜を明かした。
要するに飯田に見てもらおうが何だろうが、怖いもんは怖いのだ。
今日は幸い午後から出張だったので講演を聴きながら二時間ほど睡眠はとれたものの、それでも頭にぼんやりと霞がかかった状態のまま、電車に揺られて新宿に向かう。
混雑する自由通路の人波をかいくぐり、工事車両の停車するゴチャゴチャした横断歩道を渡り、少しだけ歩きやすいけど行き交う人の波が絶えないテラスを抜け、巨大な跨線橋を渡ってたどり着いたのは、以前何度か来たことのある某老舗百貨店だ。
平日の夕方とはいえ店内はそれなりに人出があり、仕事帰りのOLや子ども連れの主婦が興味津々でショーケースを物色している。その物欲満開な背中を横目に売り場を通り抜け、エレベーターで十一階に上がり、通路脇の店員の視線を気にしつつ呉服サロンに入る。
そう。俺は昨日飯田に言われたとおり、あの座敷童子とやらに供える着物を見繕いに来たのだ。
着物なんて、当然のことながら買ったことがない。人が買うところに付き合った経験もない。ある程度値がはるだろうという予測はつくが、それが一体いくらかかるものなのか全く分からなかった。取り敢えず、十万程度使用可能なカードと、三万円程の現金をかき集めて持ってはきたが、果たしてそれで足りるかどうかすら全く分からない。暖房が効いているのと、動悸が激しいのとで、とにかく暑い。汗が出る。
「いらっしゃいませ」
唐突に背後から声をかけられ、ビクッとして思わず姿勢を正す。
ゆるゆると振り返ると、髪を後頭部で一つに結い、紫紺の着物に草色の帯を締めた中年の店員が、裾捌きも流麗に歩いて来るのが見えた。
ごくりと唾液を飲み込んで、二,三度気づかれないように深呼吸してから、営業スマイルを浮かべてその店員に向き直る。
「着物をお探しですか」
「え、ええ……初めてなんで、全然分からないんですけど」
「大丈夫ですよ。ご予算に合わせてお探しいたしますから」
店員はこぼれんばかりの笑みを顔中に満載して、手近にあった墨色の反物を手に取った。
「このあたりでしたら、初めての方でも着こなしやすいかと思いますよ。お値段もそれほどはりませんし」
「あ、いえ、俺じゃなくて……」
「え?」
きょとんとして動きを止めた店員の目線から逃れるように、俺の視線は中空を忙しく彷徨った。
「俺じゃなくてですね、その……女性ものを」
「奥様の、ですか?」
当然のごとく店員の口をついて出てきたその言葉に、首筋がキュッと引き締まるような感覚に襲われた。
「……そ、そうです」
「ご本人様は今、ご一緒ですか?」
何気ない質問の一つ一つが、心臓にぐさぐさと突き刺さる。
「い、いえ、実は、プレゼントなんで……」
店員は手にしていた反物を元の場所に置くと、幾分哀れむような笑みを浮かべた。
「お客様、着物のプレゼントでしたらご本人様が一緒でないと無理ですよ」
「え?」
「着物は既製品とは違いますから……お客様お一人お一人のサイズに合わせて誂えさせていただきます。それには、ご本人様がいらっしゃらないと」
俺は呆然と、見事になでつけられ黒光りする店員の頭頂部を見つめた。
「それに、全て揃えるのでしたら最低二十万はかかります。決して安いものではありませんから、ご本人様のご意向をきちんと確認してお誂えになった方がよろしいかと思いますよ。」
「そ……そうですね。分かりました。今度本人連れてきますんで……ありがとうございました」
やっとのことでそれだけ言うと、不審を買わない程度の小走りで呉服売り場から逃げ出した。
☆☆☆
「どうしようかな……」
下りエスカレーターに乗り、煌びやかな各階を横目に見つつ、胸底の蟠りをため息とともに吐き出しながら呟く。
着物がそんなに面倒くさいものだとは知らなかった。夏場店頭に無造作にぶら下がっている色鮮やかな浴衣のように、気軽に買えるとばかり思っていたのに。
取り敢えず、全裸の座敷童子を店頭に連れて行くことは不可能だ。俺と、飯田みたいなの以外には姿が見えないと仮定すると、今度は採寸が不可能だし。八方ふさがり。
もう一度ため息をついて顔を上げた俺の視界にふと、エスカレーター脇に置かれていた一体のマネキンが映り込んだ。
何となくエスカレーターを降りて、そのマネキンを眺めてみる。
マネキンの異様に白くて細い体を覆う黒いワンピースは、黒という色と無難なデザインが、フォーマルな席にも十分対応できそうな一品だった。生地に織り込まれた控えめなラメと、半袖の袖口にあしらわれた上品なフリル、そしてハイウエストの位置からふんわりと広がる膝丈のスカートが可愛らしく、今時感も十分だ。
――洋服って手もあるかも。
あの少女にこのワンピースは少々大人っぽすぎる気もしたし、別に買おうと思った訳ではなかったが、値段でも確かめてみようかと、何となくそのマネキンに手を伸ばした時だった。
「草薙様?」
呼吸を止め、値札を掴んだまま弾かれたように後ろを振り返ると、前下がりのショートヘアを癖毛風にアレンジしたいかにもアパレル系の若い店員さんが、目をまん丸くして嬉しそうに俺を見上げていた。
「草薙様の、旦那様……ですよね」
店員さんは念を押すように詳しく言い直してから、上目遣いに俺の顔を窺い見た。
その時、俺の頭にはまざまざとある記憶が蘇っていた。
五月。その頃、俺たちはまだ危ういバランスを保っていた。
その数日前にやらかした派手な喧嘩の、お詫びというか、まあ、仲直りの印とでも言うか……とにかく、あいつがかねてから欲しがっていた夏用のワンピースを買いに、俺たちはこのデパートを訪れたんだ。
あいつはここに来ると必ず立ち寄る店があって、散々迷った挙げ句、結局最後はいつもその店で購入する。あの時も確かそこで白いレースのワンピースを買った。その時、試着室に案内してくれたのが、確かこの店員さんだった。
『もう年だから、真っ白は厳しいかなあ』
試着室の鏡の前で、あいつはそう言って恥ずかしそうに笑った。
『年ったって、まだ切り捨てすれば二十だろ』
『切り捨ては無理があるって。来年は三十路なんだから』
くすくす笑いながら振り返るあいつの肩に揺れていた、艶やかな栗色の髪……。
「あの……」
はっとして、慌てて両頬を思い切り引き上げ、無理矢理笑顔を製造する。
作品名:そこにあいつはいた。 作家名:だいたさん