そこにあいつはいた。
「頑張ってね」
頑張るよ。
俺も無言のまま、ゆっくりと頷いてそれに応えた。
これからの人生は、決して薔薇色じゃない。
自分を殺して我慢しなけりゃならないこと、必死こいて頑張らなけりゃならないこと、正直言って楽しくないことが、多分毎日起こりうる。
「……なあ、葉月」
「なに?」
「あの子に名前、つけてやるとしたらさ」
日に透ける茶色い髪を揺らしながら、葉月は黙って俺を見上げた。
「神無、ってのは、……どう?」
「……カンナ?」
「そう。神無月の、神無」
「あたしが葉月だから?」
「え? ……ああ、まあ、そうかな」
「男の子かも知れないのに?」
「女の子だよ」
再び黙り込んで俺を見つめた葉月の視線から逃れるように、焼け落ちて骨組みだけになった家の、マッチ棒のような柱が辛うじて形作る正方形の枠組みに目を向ける。
「あいつは、女の子だよ」
でも、だからといって楽しいことが全くないわけじゃない。
そんな玉虫色の人生のために、少し腰を据えて頑張ってみようと思う。
薔薇色の人生に、少しでも近づけるように。
そのとき、逆光に黒ずんだ柱の先に、焼け落ちた柱とは異質な何かがあることに気づいた。
ちょうど、寝室兼仏間にしていたあの部屋があった辺り。
斜めに傾いた大きな床柱の先に、何か白いものがチラチラと揺れている。
「どうしたの?」
それが何なのか確かめようと、右手を額の辺りにかざして逆光に目を細める俺を見て、葉月も怪訝そうに俺の視線を追って振り返った。
傾きかけた床柱の先で、柔らかな秋風に煽られ軽やかに揺れる白いレース。
葉月は視界の端で訝しげに眉根を寄せたようだった。
「何? あれ……」
「ワンピース」
葉月がゆるゆると首を巡らせて俺を見る。
俺も視線を戻し、そんな葉月に少しだけ笑いかけてみせる。
「あの子の、ワンピースだよ」
葉月は、長い睫毛に彩られた黒い瞳を大きく見開いて俺を見て、それから再び逆光に黒ずんではためく白いレースに目を向けた。
抜けるような青空の下、秋の風を受けて床柱の先ではためくワンピース。
それはまるで、マストの頂上にはためく行先旗のようだった。
白いワンピースが示す行く先は。
玉虫色の海を渡った先にあるものは。
旗に向かって敬礼する水兵さながらにワンピースに向かって居住まいを正し、九十度に腰を折り曲げた俺を、葉月は最初ギョッとしたように、次に幾分戸惑ったようにじっと見て、それからゆるゆると首を巡らせ、再びはためくワンピースに目を向けたようだった。
玉虫色の海を渡った先。
きっとそこにあいつはいる。
俺たちのことを待っている。
あのスマイリーな笑顔で迎えてくれる。
だから俺はその日まで、マストに高々と白いワンピースを掲げて、人生という名の荒波を乗り切ってみせようと思う。
俺の大事な娘に会える、その日まで。
ありがとな、神無。
FIN
作品名:そこにあいつはいた。 作家名:だいたさん