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そこにあいつはいた。

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 「神」が「無い」なんて、いくら妖怪とはいえちょっとあれかな、と思い直してパソコンで神無月の語源なんか調べてみたりしたのだが、なかなかどうしていい名前じゃないか。俺って名付けのセンスあるかもなどとほくそ笑みながらふと見ると、テーブルの端から目だけ覗かせて、俺の手元をじいっと見つめている座敷童と目があった。
「なあ、いい名前だな、神無」
 顔を近寄せて同意を求めてみたが、座敷童子……神無は相変わらず眉根に皺を寄せて画面を睨んでいるだけだ。
「何だよ、感動の薄い奴だな」
 妖怪に感動を求めるのもある意味無茶な話なのだが、俺はそう言い捨てて画面を切り替えると、メールのチェックを始めた。
 神無はしばらくは手持ち無沙汰そうに俺の手元を見つめていたが、やがてテーブルから離れると、その辺をウロウロと歩き回り始めた。
 今までは明るいので近寄らなかった居間に入ると、窓に額を擦りつけるようにして外の様子を眺めている。
 あんまり熱心に見入っているので、一体何を見ているのか確かめてみたくなった俺は、マウスから手を離して立ち上がると、窓辺に佇む神無の後ろに歩み寄った。
 居間の窓からは、汚らしいブロック塀に囲まれた草ぼうぼうの狭苦しい庭が見えるだけだったが、神無は目を大きく見開き、風に揺れる草や植木の葉を興味津々といった様子で瞬ぎもせず見ている。曇り空からこぼれる淡い光を反射して、長い睫毛がキラキラと光って見える。
 俺は徐に、ネジ式の鍵に手をかけた。
 神無は表情を動かさないまま首を巡らせて俺を見上げた。
 バラバラになりそうなほど大げさな音をたてる建て付けの悪い窓ガラスをガタガタ鳴らしながら横にひくと、秋の爽やかな風が湿っぽい居間にさあっと流れ込んできた。
 神無は目を閉じて風を胸一杯吸い込むと、何とも幸せそうな表情で口角をにいっと引き上げ、俺を振り仰いだ。
「気持ちいいか?」
 神無はニコニコしながら再び狭苦しくて汚らしい庭に目を向けると、雑草で覆い尽くされた地面をじいっと見つめ、それから再び物言いたげに俺を見上げる。
「……出たいのか?」
 神無は黙って俺を見つめたまま、その大きな瞳をキラキラさせている。
 俺は庭に放り出されていた汚らしいサンダルを揃えて濡れ縁の側に置くと、神無の脇を抱えて持ち上げ、その上にそっと下ろしてやった。
 外光に晒されて、神無は一瞬驚いたように目を閉じたが、恐る恐るその目を開くと、周囲のものを一渡りぐるりと見回して、それから自分の足の何倍もある大きなサンダルを引きずりつつ、背丈ほどもある雑草の生い茂る庭を探索し始めた。
 濡れ縁に腰を下ろしてその様子を見ながら、俺はふと、自分が小さかった頃のことを思い出していた。
 きれいに刈り込まれたあじさいとドウダンツツジの間にあった、オヤジが作ってくれた小さな砂場。小さかった俺は日長一日そこに座り込んで、トンネルを掘ったり水を流したりして遊んでたっけ。
 時々顔を上げて、縁側に腰掛けたおふくろの優しい笑顔を確認して、それからまた砂遊びに没頭して、日が傾いたら家に入って、家族みんなで夕食を囲んで、部屋遊びをして、フロに入って、眠くなって、温かい布団に入って、ぐっすり眠って……。

 幸せだったんだなあって、思った。
 幸せにしてもらってたんだなあって、思った。

 俺んちはしがないサラリーマン家庭で、贅沢なんかした覚えもないし、家族が特別仲よかった訳でもないし、時々喧嘩もしてたし、げんこつくらったことも数え切れないくらいあるし、ほんとにごく普通の、中流という言葉がまさにピッタリの家庭で、何が誇れる訳でもなかったけれど。

 俺は確かに幸せだったんだ。
 オヤジとおふくろに、幸せにしてもらってたんだ。

 生い茂る雑草をかき分けつつ、物珍しそうに庭を探検している神無を見ながら、どういう訳だか俺は唐突にそう認識した。

 翻って、自分は誰かを幸せにしているんだろうか。
 自分以外の誰かの幸せを、真剣に願ったことがあっただろうか。

 胸苦しいような感覚に襲われ、思わずきつく胸を押さえて呼吸を落ち着けようと試みる。
 脳裏を過ぎる、あの時の葉月の台詞。
『何で……そんなこと言うの?』
 あのときあいつはそう言って、驚きと困惑に満ちた眼差しで俺を見た。
 散々悲しませられて、怒らせられて、傷つけられて、挙げ句二ヶ月間も放置された相手に、突然あんなこと言われたって。

――そりゃあ、戸惑うのは無理ないかも知れないな。

 鼻から青臭い空気を吸い込み、それから顎を反らせて顔を思いっきり上向かせると、のっぺりした白っぽい空を見上げながら、胸の重苦しさを一気に吐き出してみる。
 その時だった。
 雑草がなぎ倒される音がザザッと響いて、ものが倒れるような重い音が聞こえた。
 慌てて前方に目を向けると、躓いたのだろう、雑草の海に頭から突っ込んだ神無の白いスカートと、そこから生えた二本の足が雑草の中からにょっきり飛び出しているのが見えた。右と左にすっ飛ばされたサンダルも、雑草の中に半分埋もれてしまっている。
「何やってんだ、全く……」
 呟きつつ、助け起こそうと立ち上がった俺の視界が、突然ぐわんと歪み、傾き、揺れた。

――え?

 重力に逆らえぬまま、雑草の海に頭から突っ込む。
 神無と俺は、そのまま数刻並んで雑草の海に倒れ込んでいた。
 青臭い草の匂いにむせかえりながら、俺は隣にいる神無を見た。緑や茶色の茎や葉の間から、やはり俺の方を見ていた神無としっかり目線が合う。
「……ぷっ!」
 胸底からふつふつと笑いがこみ上げてきて、耐えきれず俺は噴き出した。
 草だらけで半身を起こし、まだ目眩がするので立ち上がらず雑草の海に座り込んだまま笑い転げている俺を見ながら、やはり草だらけで座り込んだまま、神無はキョトンとした表情で首を右に傾けた。