芦の声
かつてこの世は混沌だった
かつてこの世は一つの点だった
「世界が二度破滅しないことを願う」
そうかかれた絵馬が一つ
もうすでに一度破滅したということならば
なぜそれを先祖は書き残さなかった
なぜにそれは語り継がれなかった
私に問うてくれ
考える芦よ 芦たちよ
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「あいつまたテストで90点越えしたのかよ!」
「こりゃ今回もあいつが一位だな」
「本当にあいつすげえな」
「聞けば全教科平均90点台あいつだけらしいぜ」
「マジでかよ」
「ありえね〜」
誰のことを話しているか自分にはわかる。
この私だ。
私は物心ついたときから、周りの子たちに交わることなく、黙々とただ哲学にふける、そんな少女だった。学者でも指揮者でもない、特に目指す目標も定まらない、煮えきらない思いで、惰性の従うままに生きてきた。せっかく生を受けたらば、無駄でも何か成し遂げてみたかった。それがどんな善行でも悪事でも。
黄色い声を奏でる、それはそれはやかましいこと小鳥のごとく、といった感じに形容できうる、そんな時代(というよりかは世代と言った方がよい表現ではあるだろう)の女の子の間では、グループに交わらない(仲間と行動をともにしない)と言うことが、どれほど大変であるか(別に宣言するわけではないが)、ということを、私は、しかしながらさほども気にしなかった。教室の自分の机がだいたい何列めかのだいたい前から何番目か机があって、私はハードカバーの本に目を落としながら、しかし耳だけを傾けながら、同じ教室にいる、交わらない周りの子たちが話しかけてくれば話したが、そうでない限り、歯牙にもかけなかった。見下していた。この少女たちはきっと、平凡に死ぬだろうと。
艶やかな雰囲気を持つ声をけたたましく響かせて話し合う少女たち。飛び回るようにその羽衣をひらつかせながらまくし立てる少女たち。だがしかし、そこにはわずかばかりの金塊なき不毛という限りしかない。それは、グループ問い精度のの弊害、話題の少なさという部分を拡張し続ける温床。
少女はめいめい、その己(=自己。わがままな自我ではない)のことを、梅雨ほどの恥と思わずさらけ出し、露わにし、素肌に自分を見せながら(つまりは厚顔無恥の破廉恥集団といえるのだが)、しかし他方ではまったくそれを、自己では気づいていないらしく、その姿、性格、品格そういったたぐいのものをむやみやたらと着飾ろうとして餌を探しいたずらに眼光だけ炯々として躍起になり、その結果として、However,自己を把握できていないまま付和雷同と陥ること、予想通りの展開であり、心理学の範疇にすら入り得ない。自らを処女とかたく信じて疑わない高校生の少女たち(まあ実際、素性のわからない、というより定職についているかさえもあやふやな、平日の昼間から暇と性欲を持て余している中年から初老の男性と援助交際なる物をするような者たちとは、ここの女子高生の世界や文化的レヴェルは余りにかけ離れていた。ここは共学としてはある程度名門の私立大学付属校であったから、そういった己の貞操を守ることに自覚がなさすぎる論外の連中は足を踏み入れること能わずというところであったわけだ)は、しかし、実際言葉の面で十分処女膜をつきやぶってしまったということができよう。結果としてその姿は堕落した天使のそのものであった。
私は無意識に問題集を手に取り、そのページの問題を十数台ほどやり、そして、あまりの平易さに、笑うのをこらえる。これをこの学校の大半の連中はできないのだ。何も飾っていない、お前等のトーク(カンバセーション)と同じことではないか。何を迷うか。その好きに私は公式を取り出し、それを変形して進めていく。わからない部分はそこに式を放り込み、長い方程式ができたが、基本は何にも難しいことをやっていない。簡単であることを、簡単に書いていても、長い式になると多くの連中は思考をやめてしまうというのだ。情けない。何とも情けない。たかだか、気体の体積は圧力に反比例して、温度に比例するというだけのはなしではないか。そのときの気体定数が物質量と気体定数の席であるだけだ。何が複雑といえるのか。仮にも理系を志したならばせめて理解すべき最低のことではないか。
私は本を読みふけりつつ、少年の手にもつノートを眺めみる。そこに彼は小説を書いているらしい。フィクションに生きて、何を残すのか。私は彼に尋ねることにした。
夕暮れどき6:00の空は夕焼けという、焼けたように見えたという昔の人々の全く宛てにならない感覚を受け継いでしまった現代人が、しかし彼らの進行までは受け継ぐことはなく、目の奥で、「ばっかじゃねーの」と漏らしたい気持ちと、泣けない退化した涙腺に槍を突きつける覚悟で「なぜはかなく一日は終わってしまうんだろう」「だから私たちは一生を無駄にしてはならない」と、なぞめいたパラドックスを積み上げる。なるほど一日があっと言う間ならば、時間として計上すべき長さではない。計上しないと言うことはそのものの存在を0として見なすということだ。0はいくらかけても0である。つまり一生は一周に終わると。しかしそれはあくまで理想状態のスカラーの話であり、現実にはそれはあり得る話ではない。わずか少々の物とはいえどもそれには大きさがあり、概念がある。故に一生が一瞬であるとは何からもいえないことになる。いわゆる「ちりも積もれば山となる」と言う奴だが。そういうことを考えていると、彼が教室から立ち去ろうとするので、その疑問を的確に聞いた。
「小説世界で何を起こしても大きくはならないではないか」
すると彼は答えた。
「小説であればこそ、現実には手の届かぬ夢を、理想を具現化することができる。そして、それを小説以外のメディアでやることはできても(=プラットフォームを別の方法に転換しても)、現実を介して夢を語ることはできない。それを行おうとして人々が思い詰めた瞬間、この世は終末を迎える。美しき核弾頭の攻撃で巻き起こる前衛的なモダン・アートで、2度目の終末をな」
「一度目は、いつ」
「・・・ビックバンが起きたとき、時間のない世界は終わりを告げた」