ヘビィスモーカー
死にたいか死にたくないかで答えれば死にたくないけれど、吸う。
吸う吸う吸う吸う吸う吸う吸う吸う。
まだ、夜中独特の静かな空気が流れていた。
こたつの中で目を覚ませば、彼女が果物ナイフを俺に振りかざし泣いていた。
「どうしたの」
「愛、してる」
「うん」
「このままじゃきっと、泡になってしまうんだ」
「俺は、南の国の姫さまと結婚したりしないよ」
それに笠谷は声が出るじゃないか、愛していると言えるじゃないか。
その分、ずっと救われている。
涙を拭ってやる。
「東條、私をおかしくしたのは誰だろう」
私はそいつが憎くて仕方がない。
死体が見えるんだ、私の死体。それはいろんな格好をしていて、どれも真っ赤なんだよ。
「私は、頭がおかしいんだ」
「知ってるよ」
だから、吸う吸う吸う吸う吸う吸う吸う吸う。
それじゃいけないのか笠谷。
「俺は笠谷の世界を見たいと思うよ」
おかしくなりたいと思うよ。
だってそうじゃないと本当に笠谷が泡になってしまいそうだ。
ねえそんなに切羽詰まって、なにに追われているの。
彼女の部屋はいつも煙っぽくて、なにもかもがぼやけて曖昧だ。
同じ煙草を吸えばおかしくなれる? そんなはずがない。だけど、なにかしていなきゃ気が触れそうだったのだ。
笠谷は本当の一人ぼっちだったと言う。友人もなければ、家族もなかった。
どうして、とか、そんなことに興味はない。
本当は嘘かもしれなくて、それでもいい。
俺だけは彼女の傍にいて、全てを信じる。
「信じるよ、笠谷」
「……うん」
笠谷、君を助けたいんだ、救いたい。
誰もが苦しい世の中で、君だけを救う価値があると思う。いや、違う、価値なんてどうでもいい。
俺にだって君しかいない。
君はまだ孤独だろうか。
「ねえ、私、もう死ぬのかな」
かわいい笠谷。かわいそうな笠谷。
「俺は笠谷の腹の上で死ぬって決めているんだ。だから、俺より先には死なせない」
彼女はちょっと笑って、とても小さな声で夢を語った。
「私は、こたつになりたい。煙草のように蝕むんじゃなくて、あんたを殺せもしない、温めるだけの」
そんな生温い生き方がしたい。
ああ、君を愛しているのに。
ベランダに出て、空が明るくなっていくのを二人で見ていた。
「寒いね」
「うん」
相槌を打った笠谷の手を取る。
君のいる世界がやさしくなればいいと、必死に思った。
「煙の中と海の底は似ている気がして、それで」
ぽつり、こぼすように言う。
「人魚姫になりたかったの?」
君はちょっとだけ考えて、口を開いた。
「東條を王子だと思ってたんだ」
馬鹿だなあ、それで君が人魚姫じゃ悲劇じゃないか。
可笑しくて可笑しくて、あんまりにもとんちんかんだから涙が出た。
「バッドエンドだって構わないと思った、私の傍にあんたがいてくれるのなら」
つくづく、笠谷はハングリィ精神に欠けていると思う。
そんなありきたりな、泣いてしまうような悲劇でいいの。俺は嫌だ。
「君には生まれつき脚が生えてる。声もあるし、それ以外に欲しいと言うなら俺がやる。君からなにも奪わないで、与えてやる」
「……ほんとうは欲しいものなんてないんだ」
願うことはたくさんある。
今月のバイト代が増えていて欲しい、明日晴れたらいいな、笠谷が生きていること、笠谷が俺を好きでいてくれますように、笠谷がしあわせであること、笠谷が死体なんて見なくなりますように。
まだまだある。
きっと星の数が足りないほど、俺は欲張りだ。
「東條が私のことを好きだと言った日から、とっくにしあわせは私のものだった」
だからもうこれ以上要らないと言う。贅沢できない、望めないと言う。
「あんたが私のために煙草を吸ってるのを知ってるよ」
君はこんなに綺麗に笑えるひとだったろうか。
「もし、これ以上の楽園があると言うのなら、そんなのは偽物だ。それこそおとぎの国だよ」
ほんとうのほんとうは、そんなこと気づいていた。
現実に完璧なしあわせも、永遠の愛も存在してはいけない。
それだから君は死体を見て、俺はヘビィスモーカーになった。奪われないように。
「これはハッピィエンドだよ、東條」
「かなり無理矢理だけど」
「ね、キスしよう」
少し苦いくちづけで物語は幕を閉じる。この先は誰も知ることのない、ふたりだけの。
1、2、3、カウントダウン。
舞台を飛び降りる。