黒猫の図書館
しかし私が思うに私の半生というものは実につまらない、そして穏やかなものだった。普通に学校に通い、普通に就職し、普通に友達と酒を飲み酌み交わし、普通にアパートで眠りに就く。そんな毎日を送っていた。怠惰な生活を送ることもなく、几帳面に物事に取り組めるほどの生真面目さもないような、絵に書いたような凡人である。もしも自分にミスター凡人を決める権利があるとしたら自分自身にその称号を贈ってしまいたくなるようなそんな凡人だ。おみくじを引けば中吉があたり、身体検査をすれば中肉中背特に問題なしと言われ、仕事にそれなりに満足するような、そしてその生活にささやかに幸せを感じるような凡人なのだ。
しかし、そんな私は思い立った。それは母の葬式の時だ。私と弟と妹が久方ぶりに顔を合わせた葬式の席で、不意に母の残した多くの蔵書と、中途半端に大きな屋敷を誰が相続するかという話になった。私は面倒だと思っていた、財産と言えば本当にこのくらいのもので、どうにもならないような建物だし妹か弟がきっと家族と住むことになるだろうと思っていた。だが、よくよく考えると弟は新しいマンションを買って楽しい生活を送っているという話を照れくさそうに話していたのを思い出した。では妹か。いやいや、そういえば妹も旦那の家で姑さんに好かれて上手くやっていた。今更母の住んでいた屋敷に移る世話もない。そんな考えを巡らせてから二人の顔を見ると少し困った顔をしていた。この家にも小さなころから世話になったものねぇ。しかしお前、この屋敷にどうやって住むだよ。そんな会話が交わされた。そして一瞬、懐かしい沈黙が訪れた。まだこの屋敷に兄妹で住んでいたころに母も一緒に交えてお茶をしている時に流れる、懐かしい沈黙だった。
「じゃあ、兄さんここに住むよ。」
私の言葉に弟たちは顔を見合わせた。いいの兄さん、と戸惑っていた。しかし、一番驚いたのは自分自身である。まさかそんな言葉が自分の口からでるとは一瞬前までほんのわずかも思っていなかったのだ。
「いいよ、兄さんもこの家の長男だからね。この屋敷に住むよ。」
思っていなかった割にスイスイと言葉は口を出て行った。そして不思議なことに言葉にするたびに、まるで今まで忘れていたことに気づいたようにそれが当然のことのように思えた。ふと前を見ると、子供のころに家族で撮った写真の中の母と目が合った。
「兄さん、ここで図書館を開くよ。」
人生最大の一大決心だった。
ほんの三か月前の事を思い出して、あの時の写真を写真立てに入れて一番日あたりのいい窓際に飾った。古ぼけた懐かしい写真は私の一大決心の証拠写真のようなものだ。
母の残したものは少なかったようで、意外と多かった。まず、植物園だと言い張っても何人かは納得しそうなほどの多くの観葉植物たち。窓辺一杯に並んだ植物たちに水をやるのは一苦労だ。中には壁にツタを張らせているものまである。次に多くの書物。これは最初に見たときからそれなりの量は覚悟していたし、図書館などと口走った手前一度少なくとも全ての背表紙ぐらいには目を通しておかなければならないと思ったものの、まるで悪戯で隠したようなところにまでいたるところに蔵書があって、これはなかなかハードでスリリングな作業だ。うずたかく積まれているものなどはまだいい、植物のツタの間や屋根裏部屋、果ては食器棚の奥にまで。一度冷蔵庫の中から出てきたときには呆れを通り越して、肩を落として脱力してまったほどだ。
そして最後にもう一つ、三時ぴったりにやってくるかわいらしいお客さんのお相手だ。
彼女は母さんの葬式の日もぴったり三時にやってきて、一緒に棺を見送った仲だ。黒い毛並みがご自慢の彼女は、いつもなあなあと可愛らしい声で缶づめをねだってくる。どうやら彼女は母さんとも懇意にしていたらしくキッチンにはしっかり猫の缶づめが馴染んでいた。時計に目をやるともう彼女の来る時間だ。いつものさらに缶づめを盛りつけて勝手口へと向かう、今日はまだ珍しく彼女の鳴き声が聞こえない。
彼女の姿があるか心配になり勝手口を薄く開いた。黒い毛並みの猫が勝手口に背を向けて気持ちよさそうに横になっていた。するとどうだろう、彼女に向かってぐいっと手が伸びた。どうやら先客のようである。生垣のの陰から延びる紺のカーディガンを纏った手は少しごつごつした、それでもハリのある優しそうな手だった。手は一度二度彼女の背を撫で、のど元をくすぐる。彼女は気持ちよさそうに目を細めてごろごろと鳴いていた。と、その時どうやら彼女が私の運んできた缶づめの匂いに気づいたらしくぱっと起き上がってこちらに駆けてきた。別に隠れていたわけではないが私も観念して扉をあける。すると生垣の向こうのあの手の主とバッチリと目があった。眼鏡越しの鋭い釣り目に、ずいぶんと年の離れているだろう青年に腰が引けてしまう。不審な物を見る目で青年が私をにらんだ。
「おじさん、クイーンの何?」
「クイーン?」
聞き慣れない単語に聞き返すと、あきれ顔の青年は一度視線を落として缶づめに夢中な彼女を見る。
「ああ、彼女の事か。」
「クイーンの何?」
改めて問われると分からない。愛らしいくもずうずうしい彼女を観察しながら、一度頭の中で整理してみた。後見人か、保護者か、はたまたお節介なおっさんか。
「・・・愛人?」
「はあ?」
おかしなやつだと思ったのだろう、眉がぐっと寄った。ちなみに何時でも逃げれるようになのか足はいささか後退気味である。
「私は缶づめを彼女に提供して、彼女は私に癒しを提供する。ギブアンドテイクの関係とでも言うのかな?」
「それだと愛人って言うより援助交際じゃねぇ?」
そうとも言うのかもしれない、と一人で納得していると青年は若干私に引きながらも、彼女のもとへ屈みこんだ。