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I fly.

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*** I fly. ***




 少女は、ゆっくりと階段を上っていた。足音を響かせないように、ゆっくり、ゆっくり。片手を壁に、もう片手は胸につけ、じっと上だけを見ている。最後の一歩を出し足を揃えると、彼女は深く息をついた。目の前に現れたのは一枚のドア。小さな窓が一つと、ノブが一つついた、灰色のアルミの板だ。彼女は持ってきた小さな鍵を差す穴を探した。
 彼女がこの場所に来るのは、初めてだった。普段なら立ち入り禁止であり、そもそも用事も無い。しかし、今日は来なければならなかった。研究という名目の元、鍵をどうにか借り、ここまで上って来たのだ。
 鍵穴は、ドアノブについていた。もう一度大きく息を吸い、握っていた右拳を開く。指先に血が戻っていくのを感じた。掌には5cm程の古くくすんだ銀色の鍵。“屋上”と黒マジックで書かれた赤いプラスチックの札が、やけに鮮やかに見えた。
 鍵を穴に差し込み、ゆっくりと左に回す。“カチッ”と世界が開く音がした。思っていたよりもずいぶんと響いたので、彼女は慌ててノブから手を離した。辺りを見回し、長いため息をつく。ほとんど息のような声で、研究だ、と呟いて、しっかりとノブを握った。ほんの短時間だったのにもかかわらず、ノブには彼女の熱が移っていて生温かかった。
 ドアを開ける。無音だった世界に、けたたましいせみの声が攻め込む。小さい窓から見えていた景色が、途端に大きくなる。鍵の色と同じような、息苦しい景色。薄汚れた白いコンクリート製の床と壁に、暗い白の空。水分の多い空気に包まれたのを、彼女は感じた。
 制服を整えると、彼女は一歩踏み出した。足元にある格子状の黒い線の上をゆっくりとまっすぐに歩き、端から2mのところで止まった。相変わらず白い空に、白い校舎と、人のいないグランドがよく溶け込んでいた。
 水分を肺いっぱいに吸い込むと、彼女は一度振り返る。差したままの赤い札が風に揺れた。音も無く、彼女の視界の唯一の色は、手を振るように揺れる。体の横で握られていた拳を胸まで持ち上げゆっくりと開くと、彼女は少しだけ手を振った。ただ痺れただけなのかもしれない。しかし、何か楽しいものでも見つけたかのように、穏やかに風に手を振った。そう思えるほど、ゆっくりとした、小さな動きだった。
 彼女は外へと体を向けると、大きなため息をついた。絶望、ではない。それにしてはとても恍惚とした顔で笑っていた。感嘆のため息。そうして目を瞑る。
「ありがとう」
 そう呟くと、一歩足を踏み出す。埃の溜まっていた床を確認するように、強く踏む。そうして、もう一歩、二歩、三歩。彼女はそこで足を揃える。目は閉じたまま、大きく深呼吸をする。世界に溢れている水分量がとても心地よいもののように感じていた。そう、生物の起源は海なのだ。だからこそこの水に癒される。そこに戻るのだ。起源に戻る。とても高尚な言葉に思え、彼女は何度か呟いた。起源に戻る。起源になる。自然と笑みをこぼし、手を胸の前で組んだ。両親指の付け根をしっかりと胸につけ、ぎゅっと握った。目は閉じたまま、彼女は足をゆっくりと大きく前に出した。
「さようなら――」
 彼女は目を開けた。
 出した足は何にも触れることは無く、驚きのまま全身で重力を、それの作り出す加速度を感じる。目の前にはもう何も見えなくて、そうして意識だけが高速で重力を撥ね退ける。それは一種の快感。誰にも感じることのできない感覚を、彼女は一人で感じる。なんと素晴らしいことか! 誰も知ることのない記憶を刻みつけ、起源に返る――はずだった。そのはずだったのに、彼女の足は、鈍い白のアスファルトに乗っていた。加速などすることなく、床によって押し返されている。落ちていない。
 大きく開いた足は、彼女の見た世界から数cm内側にしかいなかった。
「青空じゃなきゃ、駄目なの?」
 彼女はその場にへたれこむ。先ほどまでの穏やかな表情はもうない。両腕を抱え、震えていた。肩で息をしながら、何も言わない。
 あと数cm。なんという誤算だろう。あと数cmで、あの場所にいたのに。真下にある、花壇の上に。起源である、海の夢の中に。ただの誤算だ。このまま下を覗き込めば、そのまま飛べる。飛ぶためにここに来た。さあ早く。
 思うばかりで、動けない。震えが止まらず、口すらも、開かない。命令もしないのに涙はあふれ出る。動かない。動けない。仕方が無いので、動かない体の代わりに彼女は視線だけを下へ馳せた。ずっと遠くにある花壇には、花がたくさん咲いていた。茶色と白しかない重苦しい世界の中で、鮮やかなまでに赤く風に揺れていた。
「さようなら、私はそちらに行けないのね」
 手を振っているかのように見えた。それに答えるように、彼女は呟いた。





 晴れている日にすれば、きっとあの赤に気づかず行けた気がする。それでも――






fin.

『この曇り空だって今なら飛べるような気がする』 by UNDER the small SKY(http://lostdrop.fool.jp/sky/)
作品名:I fly. 作家名:きょう