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楽園の涯

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「いらっしゃいませー」
 電子音に習慣的に反応して声を掛けると、入ってきた女はちょっと驚いたように俺を見た。一瞬目があって、すぐに彼女は雑誌のコーナーの方へ姿を消す。深夜のコンビニエンスストアには似つかわしくない、ぱりっとしたグレーのパンツスーツ。綺麗な栗茶色の髪は短い。少なくとも残業帰りのOLには見えない。
 嫌な予感のようなものが、体に残った。
 ――俺は、彼女のような人間を、よく知っていたからだ。
 後ろにある棚を整理する振りをして、俺はレジに背を向けた。あと五分で、シフトは終わる。どうにか、それまで乗り切りたかった。
「真鍋君」
 背中から掛けられた声に振り返ると、店長が立っていた。
「はい」
 返事をして、向き直る。店長の顔には困惑と好奇心が垣間見えた。
 つまり、嫌な予感は、当たったという事だ。
「今日はもうあがっていいよ。君にお客さんだ」
「……わかりました」
 エプロンを外して、店長に軽く会釈をしてから、俺はレジカウンターから出た。店長が中に入るのと入れ替わって奥で帰り支度をし、一度中へ声をかけてから、裏口を通って外へ出る。
 そこに、彼女がいた。暗がりの中唯一足下を照らす電灯の下に、何をするでもなく立っている。
 出来ることなら一秒でも早く、そこから走って逃げ去りたかったことは、はっきり覚えている。
「真鍋英二くん?」
「はい」
 にっこりと、場違いなほど上品な笑みを彼女が浮かべた。
「ちょっと話があるのだけど、いいかしら?」
「はい」
 もう何度目かわからない会話を繰り返して、俺は彼女を店の裏へ連れ出した。そこまで来て、エプロンを持ったままだったことに気づく。どうせクビになるのなら、持ち去ってやろうかというばかげた考えが頭に浮かんだ。……しかし、どちらにしても、また一からバイトを探さなければならない。
 違う理由で立ちつくす俺を見て、彼女は一枚の紙を懐から取り出した。
「わかってると思うけど、お父様から頼まれて、キミを捜してたの」
「そうでしょうね」
「そう気を落とさないで。別に私は興信所や探偵じゃないわ」
 差し出されたのは名刺だった。薄い上等な紙にたった二行だけ文字が印字されている。左上に小さく所属と、紙の中央に大きく、彼女のものらしき名前。
「弁護士?」
 名刺から顔を上げると、やはり彼女は微笑んでいた。その時俺は何故か彼女に少しみとれていて、話し方や笑い方に育ちの良さや、頭の良さを感じさせるような人だと思っていた。後にその印象は少しばかり、塗り替えられることになる。
「連れ戻しに来たわけじゃないわ。お父様は、キミと話がしたいそうよ」
「それは……いかにもあの男が言いそうなことですね」
「信じられない?」
 嫌悪感をあからさまに出して、俺は顔をしかめた。
「当たり前でしょう」
「それは私を? それともお父様を?」
「勿論父を」
 即答した俺の答えにか、またもや反応にか、彼女は少し可笑しそうに笑った。
「なら、話は早いわ」
「何故ですか?」
 その俺の質問には答えず、彼女はとうとう少し前屈みになって、こらえきれない、とでも言うように小さく声をあげて笑い出した。呆気にとられてどう反応して良いのかわからずに、俺は再び立ちつくす。十秒はたっぷり笑ってから、ようやく彼女は顔を上げた。
「こんな時に、私みたいなの相手にもちゃんと丁寧語が使えるのね」
「……生憎育ちがいいもので」
 その返答に少し目を細めて、
「お父様と話が出来ないのなら、私とはどうかしら?」
 そんなことを、彼女は言った。
「残された選択肢は二つよ。一つは今までと同じように、大人しく家に帰ること。もう一つは  」
 そこで立てた二本の指の内一本を倒しながら、とっておきの悪戯を明かす子供のような表情をひらめかせる。
「キミさえよければ、私が話をお父様に伝えるわ。ただし、身柄は預からせて貰うけれど」
 選択など、始めからなかった。それは俺が彼女を見くびっていたわけでも、信じていたわけでもなく、
「だから言い分は聞くけれど、今住んでるアパートは引き払って、バイトもやめて、学校に戻って貰うことになる。それがお父様の出された条件よ」
「じゃあ俺は何処に住めばいいんですか?」
「私の家よ」
 その彼女の返答に、予想した答えと、言おうとしていた言葉は一気に霧散した。
「だから言ったでしょう、キミさえ良ければ、って。それとも、こんな女と同居は嫌かしら?」
 そこでようやく、俺は彼女から渡された名刺をまともに見た。
「各務、さん」
 各務伊織とかかれていたその名前が、本名かどうかさえも結局俺は知らないままで、
「……ご迷惑をおかけしますけれど、宜しくお願いします」
 それなのにその時何故、彼女を信じる気になったのかは、何年経っても――むしろ彼女を知れば知るほど――わからなくなった。単に、親父から逃げたい、その一心だったのかもしれない。
 とにかく彼女は、初対面からよくわからない人だった。
 それが、始まり。

作品名:楽園の涯 作家名:名村圭