なにもないはなし
最初からここにはなにもなかったんだ。
キッチンに並ぶ色違いのマグカップも、汗ばむ季節になっても居座り続けた二人で入るには小さい炬燵も、いつのまにか俺まで聴くようになったハスキーボイスの女性シンガーも、ささいなことで喧嘩して飛び出していった時けたたましく響く錆びついた階段を駆け下りる足音も、だんだん上達していく料理の腕とそれを審査する自称美食家気取りも、泣かせたのは自分のくせに泣きだす直前みたいな顔で目元を拭うお前の指も、抱き合っているときの甘ったるい台詞も、たった7センチされど7センチの身長差も、毎日欠かさないと最初に決めた「ただいま」と「おかえり」も、狭いベッドの中で一晩中繋いでいた手の温もりでさえも。
荷物をすべて運び出してしまった部屋にはもうなにも残されていなかった。ただぽつりと俺だけがこのなにもない部屋に取り残されていた。
窓から見える景色は昨日と変わらない。変わってしまったのは内側の方。からからと窓を開けると冷たく刺さるような風が吹き込む。暖房器具のない部屋に居てはとうに身体は冷え切っていて、今さらどうということもなかったけれど。この冷たい指先を包む熱はないのだと。ここにはなにもない。
『好きだったよ、』
そう、笑っていた。泣くのを必死に堪えているような顔で、いつも通りにと装い切れていない表情で、だから俺も笑ったんだ。
『俺は、だいっきらいだよ、お前のことなんか』
精一杯の強がり。最後まで素直になんかなれやしなかった。くるりと背を向けて去っていく姿を見ても引きとめようなんてしなかった。できなかった。部屋に残されたのは自分一人。なにもなくなってしまった。
最後までここにはなにもなかった。
きつくきつく握りしめていた手のひらに乗っていたのは銀色に光る鍵。付けていたキャラクター物のキーホルダーは塗料が剥げて鼻の頭が白くなっている。部屋の真ん中にそれを置き立ち上がる。冬の日の柔らかな日差しが反射してちかりと輝く。一瞬目を眇めるけれどすぐに振り払って歩き出す。涙などとうの昔に乾いていた。
「…バイバイ」
ふたりの間にはなにもなかった。このからっぽな部屋と同じように、なにもありはしなかったんだ。
end.