いとしのアラクネ
気持ちよく晴れたある日、幅十間ほどの川で
ひとりの男が釣りをしていた。
川の中には「縦の井戸」と呼ばれる深い場所があって、
向こう岸には竹藪が生い茂り、なんとも暗く寂しい雰囲気を醸し出しているのだが、
この川はうんと魚が釣れるというので、男はしばしば釣り糸を垂れていた。
男がいつものように釣り糸を垂れていると、水中から小さな蜘蛛が出てきた。
蜘蛛は男の両足の指に糸をかけては水中に戻り、
また出てきて糸をかけては戻るのを繰り返した。
男は不思議に思ったが、特に不快でもなかったので
蜘蛛の好きにさせてやった。
やがて巻かれた糸が足首に達した時、
水中から「よしかぁ、よしか」と声がしたかと思うと、
向こう岸の竹藪から「よし」と返事があって、
恐ろしい力で男の足が引っ張られた。
抵抗する間もなく、男は水中に引き摺りこまれてしまった・・・・
車椅子に腰掛けた老人は、遠くを見るような目でそこまで話すと、
大儀そうに深く息を吐いた。
「その話なら存じておりますよ、先生」
車椅子の後ろに控えていた青年が、老人の顔を覗き込んだ。
「でも、おかしいですね。僕の記憶とは落ちが違います」
「んん?」
首を捻る老人をあやすように、青年はゆっくり車椅子を進ませた。
「男は、指にかけられた糸を傍の杭に移して難を逃れたのではないですか」
「いやいや、男は引き摺りこまれたのだよ」
引き摺りこまれた水中に、あの小さな蜘蛛がいた。
蜘蛛は男に寄り添って、鈴の音のような声で、
大親分が人を食いたがるので、いつも自分が糸をかけて、釣り人を川に落として連れて行く。
しかしもうやめたい。あんたを連れていきたくない。
今、あんたを引っ張っているのは大親分だ。逃げられない。
この糸は絶対に切れないんだ。絶対に逃げられないんだよ。
許しておくれ、許しておくれ。
と、悲しそうに言うのだった。
男はこの小さな蜘蛛をいじらしいと思い、こう言ってやった。
「蜘蛛の河怪、俺の脚を切ってくれないか」
その日の夕刻、川岸で男が倒れているのが見つかった。
男は命こそ助かったが、両足の膝から下を失っていた。
「何度も来て貰って申し訳ないがね」
老人が膝までしか無い両脚をさすりながら呟いた。
「義肢を作る気はないよ。私の脚はあの蜘蛛にあげたものだからね」
皺だらけの腕の上を、何か影のような物が横切ったけれども、
青年は気が付かなかった振りをした。