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思考の海

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いつからあいつは私の目を見て話さなくなったのだろう。昔ほど非現実的な内装ではなくなったものの、やはりあまり常識的とは言えないピンク色の壁のシミを見ながら私は深い思考の海へと溺れていった。隣で私の枕の半分を占領しながら、少しでかすぎるテレビから流れてくる馬鹿らしい深夜番組を見つめている彼は私が今こんな事を考えているなんて少しも想像出来ないだろう。別に今の秘密めいた、そしてまた趣味の悪いスリルを味わうような関係が嫌になってきたわけではない。世の中の不倫している女の子とは違い、私はあまり男を独占したいタイプではなく、いやむしろ自分だけのものになってしまったら何かとめんどくさいと考えてしまうタイプであるからだ。だからこういう関係は気楽で、またほどよい安心感と幸せを得られるので割と好きなのだった。しかし、最近の彼はこうして週1で会っている時だけではなく、仕事中に至っても私と目を合わすのをいやがるそぶりを見せるようになった。少し前ならば私が他の人に自分たちの関係がばれてしまうのではと心配するくらい、まるで付き合いだした中学生の様に不自然な目配せや雑用を頼んできたりしてきたものだったが、ここ1ヶ月ほどは寧ろ出来るだけ私に用事を頼まないようにしているようだった。だから、最近の同じ部内の女の子の給湯室での話題は「ついに部長と鈴木さん別れたみたいよ。でも鈴木さんって物好きよねえ、あんなおっさんばっかり何人も…。」に変わっている。私が知らないとでも思っているのだろうか。いやむしろ私に聞かせたくてやっているのだろうか。私は会社に噂を聞かれて困るような友達も居なければ、自分も特に気にするタイプでは無いのでどうだって良いが。だが、そんな状態になっている今でも毎週同じ日に一回ずつ必ずデートはしている。まあデートと言っても、飲み屋で少し飲んで食べてから、途中でワインを何本か買い、ラブホに行って2時3時に彼が帰り、私は家に帰って寝るのが面倒くさいので泊まっていくだけなのだが。今日もいつもと同じように新宿の適当な飲み屋でお互いビールを飲んでいるときも何か考え込んでいる様子で、私が仕事の話、ニュースの話、近所の犬の話をふっても殆ど「うん、うん、そうだね」としか答えてくれなかった。どちらかというと気の弱くて真面目だけが取り柄のこの人をこんなに悩ませることは何なんだろうか。私には言えないなにかがあるのだろうか…いやでも。
「美枝子もう3時だから俺は帰るよ。余ったワイン飲んでおいてくれ。」
と言って彼は面倒くさそうに立ち上がり脱ぎ散らかした服を掻き集め始めた。私は名残惜しそうに後ろから彼の少し中年太りした肩にそっと抱きついた。
「おい、ワイシャツ着づらいだろう。そうくっつくなよ。」
「だって今度また会えるのは一週間後でしょう。少しならいいじゃない。」
「一週間なんてすぐじゃないか。もうそろそろ帰らないと妻に怪しまれてしまうよ。」
そういいながらせこせこと着替えると、慌てるようにして
「じゃあな」
の一言を残してさっさと帰ってしまった。別に私もそんなにずーっと一緒に居たいわけじゃないが、今日は少し冷たすぎるのではないか。そう思いながらさっき彼が置いていった飲みかけのワインをグラスに注いだ。やはり少しむしゃくしゃしたときはお酒にかぎるだろう。そう思いなみなみとグラスの中で揺れている血のような赤ワインを一気に喉へ流し込んだ。一瞬ふと苦みを感じたような気がした。しかし、そのあとすぐに息が苦しくなってそれどころでは無くなってしまった。いや寧ろ息が出来ない。彼が何か入れたのだろうか。私は死ぬのだろうか。いやどうせ私の人生なんてそんなに価値があるものじゃないし死んだってかまいやしない。しかし、彼は私の死体をどうするつもりなのだろうか。大胆なことが出来ず、すぐに顔に出てしまう様な彼がこんな大それた事を隠しておけるはずがない。私のせいで彼が罪に捕らわれてしまうことが申し訳なかった。大体こんな急展開だれが予想しただろうか。もう少しロマンチックな別れ方が良かった。これじゃロマンチックではなくてドラマチックではないか。
作品名:思考の海 作家名:かぐにゃん