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最終列車が発車した。 前編

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たった一度だけ、恋した男が死んだんです。








「婆ちゃん」

青年の爽やかな黒髪は汗で軽くしめっていた。
彼は、このぎしぎしと音のなる祖母の平屋が好きだ。ここに来ると何だか懐かしい気持ちになる。

蝉がさきほどからジワジワと鳴き続けている。

青年は青いラインの入った白のポロシャツで自分を扇いだ。

「婆ちゃん、カルピス作っていい?」

返事はない。

青年は優しげに溜め息をつく。

(また寝てるな…)


祖母は居間で横になっていた。

時々風鈴がわずかに揺れ、ちりんとなる。


彼は絵に描いた様な幸せな風景に微笑んだ。


(まぁいいや。ゆっくり寝させてあげよ。)



青年は大学1年生の初めての夏休みを迎えていた。

彼の大学は祖母の家から新幹線で2時間位のところにあり、その大学の夏休みは少し遅くから始まって9月いっぱいまであった。


…そのせいか、高校時代よりも若干休暇が増えたようだ。
彼は祖母の家に1週間ばかり(婆孝行もかねて)泊まることにした。

彼は元来おばあちゃんっこだったし、さんざん頑張った受験戦争のわりに中身のうすーい大学生活に心底嫌気がして、すたこら逃げ出したくなったのだ。

これだけ離れてたら少しだけ安心できる…。


逃げるも何も誰も追い掛けては来ないのだが。



青年は古ぼけた小さな冷蔵庫をばくんと開けた。

少し黄色い。



青年の祖母の家は築50年は悠に越えていて、ちょっとした重要文化財みたいな見た目だ。

彼女の父、すなわち青年の曽祖父が彼女がまだ赤ん坊だったころに建てた。

…だからその古ぼけた冷蔵庫もこの家にはしっくりとあっていた。



青年は冷蔵庫の臭いのする氷をコップに入れながら、ぼんやり今後について考えていた。

最近あらわれだした祖母の認知症の兆候だとか、その場合の彼女の住む場所だとかを。


別に孫の彼がそんなにしっかり考えるものでもないが、青年はいわゆる「両親が頼りないからしっかりしてしまった」タイプだった。


…だからカルピスを飲み終えるまでの時間を有効活用して真剣に考えこんでいた。




(認知症の症状がでている今の状態だったらこんな片田舎で暮らすよりもそりゃあ俺達と都会で暮らす方が安心だよな…。…でもかと言ってばあちゃんが生まれ育ったこの家を捨てろってのも酷な話だ。どっちがより幸せかなんてばあちゃんにしかわかんないしな…。それに母さんにとってはばあちゃんは他人なわけでいくら息子の手がはなれたからといってこれからさき姑の…あ、カルピス終わった。)


青年は流しに持っていき、冷たい水道水に感謝しつつコップを洗った。

カタン、カタ…サー…


キュッ



「タクッ」


青年はビクッとした。


祖母が急に自分を呼んだからだ。


「なにー?どしたのばあちゃん。」

青年はサッと明るい声で答えた。

彼は本当に祖母が好きだった。



祖母は怒った様な泣きそうな様な顔で畳の上に座っていた。


青年は少し困った。


「なに?ばあちゃん」


祖母は青年の姿を見付けると、途端ににっこりした。


「タクさん、会いたかったのよ。」


青年の心臓が高鳴った。



すぐに直感したのだ。
祖母が誰か別の「タク」と自分を勘違いしている…と。





…もうそこまで酷いのか?




青年の心音はますます速くなる。

それはあまりにも大きなショックだった。

自分が大切な人となればなおさら…「アリエナイ」。そんな現実はアリエナイことだった。




「…ばあちゃん」

いや、違うか…





青年はぽつりと呟いた。


目の前で微笑む「少女」に向かって、





「…亜希」





、と。