忘れて下さい
死んでしまつて、わたくしの肉體はとうに現世からは消滅してしまつてゐて、それでもわたくしの事が他人樣の記憶の中に殘るだなんて、恐ろしくてたまらないのです。
ですからわたくしは、なるべく他人樣の記憶になど殘らないやうに生きて參つたので御坐います。それでも……それでも嗚呼! 誰かしらの記憶には斷片的にでも殘つてしまつてゐるので御坐いませうか。なんと恐ろしい!
小説家の先生などは何故あのやうに文字を殘せるので御坐いませうか。文字と云ふ形で己の思想を殘し、そしてそれが何十年、云へ何百年經つた後も見知らぬ人間の中へと刻まれるのです。何故そこに恐怖を感じないでゐられるので御坐いませう。
歌を歌つていらつしやる方もさうです。レコオドなどに自分の聲を乘せ、なぜ泰然としていらつしやるのでせう。レコオドに記録された聲は消えません。いつまでもいつまでも他人樣の耳に殘るのです。その度にあなた樣の記憶は他人樣の中で呼び起こされる事でせう。たとひご本人樣がお亡くなりになり、身は朽ち果て土に還つたとしても、それは變はらないので御坐います。
なぜ皆樣斯樣に恬淡としていらつしやるのでせう。記憶に殘ると云ふ事に何故そのやうに何の御心配も抱かないので御坐いますか。若しも確固たる答へがそこにあると仰るのならば、どうぞわたくしにも御教授下さい。
……いえ、矢張り結構でございます。忘れて下さいまし。今日の事も、わたくしと云ふ人間に會つてしまつた事も、全て……全て。全てお忘れ下さいまし。
わたくしにはその答へを聞いても、きつと……矢張りこの恐れを打ち消す事は出來ますまい。ですから、どうぞお忘れ下さい。
全て……全てお忘れ下さい……。