Euphoria
今となってはもう曖昧で記憶も溶けてしまっているけれど、いつからかあなたの傍にいる。
他人とも友人とも恋人ともつかない、ぼやかした関係でつないでいる。名前をつければ終わりがくるから、それをしない。
とっくの昔に「あいしてる」を忘れてきたようなあなたは、この先無条件に愛されて生きるべきだったから、わたしはただ与え続けた。
あなたは雨の日が好きだ。てるてる坊主を作って逆さまに吊るす。小さな窓際は、いつも雨を望んでいる。
「溺れんなよ」
ふいに声をかけられて振り向く。あなたがわたしの方を見ていた。
できるだけゆっくり、口を開く。
「そんなこと言うの、珍しいね」
ありとあらゆるものが憎いだろうに、あなたはわたしの心配をする。生かそうとする。
「苦しいだけだろ」
「溺れてないよ。ちょっと沈んでるの」
「同じだ」
「潜水は得意なんだ」
やさしすぎるあなたから多くを奪った神は間違いだらけだ。
それならあなたが世界を廻すべきだった。
「ばかだよな」
泣きそうな顔が近づいてきて、そのまま唇に熱が触れた。
「なに、どうしたの」
「酸素。やる」
泣きたいのはこっちだった。あなただって相当ばかだ。
「……今日は誕生日でも、バレンタインデーでもないよ」
「気まぐれだよ。忘れろ」
知っているくせに。
削除できるデータを選べるとしたら、あなただってそんなには痛まなかった。
時折、半ば狂って祈ることがある。あなたのことだ。
祈る神がいないから、わたしはそういう夜、星に願って眠らない。
溶け落ちてしまえ、と思う。そうでなければ、あなたを焦がす記憶まるごとわたしが背負ったってよかった。
あなたはもう一度うまれたいと言う。
わたしはそんな面倒くさいことごめんだから、必死に救いたがる。
きっと、なんどやり直したって同じだと思うんだよ、ユーリア。
夜のことだった。ざあざあという音が静寂を侵していた。雨が降っている。
ふたりでベッドに腰掛けながら、その音楽を聴いた。
「なあ、ひとつ、はなしを聞いてほしいんだ」
「いいよ。どんなおはなし?」
「失うはなし」
わたしは決まって、夜になるとしあわせについて考える。
「ひとつの家族があった。やさしい父母、五人の兄弟。絵にかいたような、だけれど五人兄弟ということを除けば、ありふれた普通の家庭だ」
なにが本当のしあわせだろう。生きていること、お金があること、愛されること、五体満足なこと。ひとそれぞれ、色んなしあわせがあるのかもしれない。
「その家族が、火事に遭った。ことごとく焼けた。家も、お気に入りの本も、人間もだ」
それなのにどうして、俺だけが焼けなかった。
そのときあなたは火元のキッチンから一番離れた部屋にいて、火がまわる前に救出されたのだという。このことをわたしが喜んだら、あなたは怒るだろうか。
「もっと、気を付けていればよかった。魚が食べたいだなんて言わなきゃよかった。一人部屋で寝ていなければ、一緒に灰になれただろうに」
あなたにとっては、きっと家族が世界だった。その世界をおびやかされないことがしあわせだった。
「どこで、選択肢を間違えたんだろうな」
一度立ち上がって、俯いているあなたの前にしゃがみこむ。
「ユーリア。わたしたちは確かに選べる、だけど、創ることはできないんだよ」
創造できるとしたら、わたしだってあなたをどうにかできた。思いつく実行可能なすべての方法が、神に与えられた選択肢だった。選ぶことしかできない。
「どれを選んでも、同じようになにかを失った。どうしようもないんだ」
万が一にもあなたの眠るベッドにすべてが満ちることがあるのなら、なんだってしてやるとずっと思っている。
「欲しいものがあるなら、いくつでも選んでいいよ。わたしがプレゼントしてあげる」
だから泣かないで。もう火なんて消えているから、雨を降らさなくてもだいじょうぶ。
愛してる、言葉と一緒にキスをした。
やっと浮上できたあなたに酸素を送る。
救われなきゃおかしい。
だって、ユーリア、ひとは誰しもしあわせになれるというよ。