星のない国
その部屋は国だった。
小さな宇宙で小さな世界で、小さな国だった。
鈍い銀色をした鍵はパスポート。
それさえあれば、この国に入ることが出来た。幼い頃渡されたそれを、失くしたことなんてない。
すっかり体に馴染んでしまった匂いに迎えられて足を踏み入れる。
おじさんが時々吸う煙草とか、気まぐれにつける香水とか、そんなのものが混ざり合った匂いだ。
ちょっとだけとろりと甘くて埃っぽいそれは、そのままおじさんだった。
彼はいつも空気を動かさないで笑った。眠る時も食べる時も、静かで穏やかだった。
そういう人だったのだ。優しくて、優しすぎて、他のものを大事にするあまり自分の大切さを忘れてしまうような。
そしておじさんは、この国の王様だった。
あたしは、あれほどまでに謙虚で、柔らかく生きた人間を知らない。心配するのが当然だとそれを言い張り続けた、それほどまでにやさしい人間を知らない。
一番最近見た微笑みは、彼が体温を奪われた後のもの。
まるで苦しいことなど知らぬように、全てを慈しむように、そっと死んでいった。
そんなおじさんがいなくなっても、地球は構わず廻った。
あたしはいつも通りトーストを二枚食べたし、たっぷりと塗ったイチゴジャムは相も変わらず甘かった。痛かったのに泣かなかったのは、この世界で泣いても虚しいだけだと思ったからだ。
この部屋は枯れていた。
王様を失った国は途方に暮れて、夜も朝も来ない。
地球ではない、もっとおじさんの存在が大きな場所。
その事実が、ひたすらに温かかった。
抱きしめていた大きな大きなおじさんの写真を見つめる。この部屋にあって、それに巻きつけられた黒いリボンだけが冷静だった。
額の薄い硝子越しに、頬に触れ目蓋に触れ、それから唇に触れた。年を重ねるにつれて、繋がれなくなった手のひらを思い出そうとして止める。遠すぎる記憶だ。
ゆっくりと膝を折り、王様の椅子、灰色のソファに遺影を立て掛ける。線香の代わりにテーブルに置いてあった煙草に火をつけ、拝む代わりに月を上げることにした。
窓のところまで行って開けっ放しだったカーテンを閉める。
そして、近くにあるスイッチで電灯を点けた。
煌々と小さな月が輝く。おじさんが死んで、初めての夜だ。
おじさんの大事な家具たちの中で、少しだけ泣いた。ここは地球とは違うから、立ち止まっても置いて行かれたりしないだろう。
ソファに体重を預ければ、ふんわりと受け止めてくれる。その心地よさに目を細めれば、逝ってしまった人を追いかけるように涙が溢れた。どうせなら、もっと早く駆け抜けて追い付けばいい。煙草の煙と一緒に、この部屋をいっぱいにすればいい。
できるならば、この匂いに包まれて窒息したいと思った。
刹那、愛するひとに抱かれたような感覚に襲われて、自分の腕に爪を立てた。
もう、あのひとはいないのだ。
願おうが祈ろうが叫ぼうが泣こうが、たとえ愛そうとも逢えない。
「叔父さん」
帰らぬひとに呼びかけてみる。
白い空を見上げれば、月があった。今日の月もまん丸に満ちて、その中にウサギは見えない。
おじさん、月が綺麗だよ。
この部屋の空に星はないけど、死んだあのひとは、見えない星になったのだろうか。
いつも静かに、隠れるように消えるようにして笑っていた彼らしく、小さく光っているのだろうか。