Camellia
彼女は真っ白いふんわりとしたワンピースをひらひらさせながら、芝生を歩いていた。何も履いていない素足は、リズミカルに右左を繰り返す。
「ねえ、恵(けい)ちゃん。椿が咲いてる」
綺麗だね、と笑う。笑う、笑う、ああ。
風に揺れる黒髪を追いかけるように、腕をのばす。
いつか大きくて好きだと言われた手のひらで、彼女の視覚を奪った。
「わ、なぁに?」
無邪気な声。
この手のひらも、瞳も言葉も、彼女のことを護るためにあるのだ。護り慈しみ愛するために。
「だーれだ」
「ふふ、恵ちゃんでしょう」
「正解」
そう言って手を離すと、嬉しそうに微笑んだ彼女が振り返り、腕を首に回される。花束を抱くように、そうっと確実に抱き留める。微かな花の香りが鼻腔をかすめる。
唐突に、母の言葉を思い出した。
「恵弥(けいや)、今年は椿を植えてみたの。乙女椿って言うのよ、可愛いでしょ。ね、あなたの彼女、なんて子だっけ……そう、花音ちゃん。似てると思わない?」
花木が好きな母は、毎年少しずつ庭を賑やかにしていく。そしていつも、満足そうに花木について話して聞かせるのだ。
確かに乙女椿と言うだけあって、可愛らしい八重咲きの花を付けたそれは、花音のイメージと似通うものがあるかもしれない。
だけど、母さん。違うよ。花音は椿とは違う。
あんなにあっけなく首を落としたりしない。椿はまるで首を折るように、花を落とす。それは死を彷彿とさせて、その度に椿を好きになれないと感じてしまうのだ。
そんなことさせるかと思う。
「恵ちゃん? どうしたの、手がだらんってしてるよ」
寂しそうな花音の声にはっとして、もう一度腕に力を入れる。
「ごめん、考えごとしてた」
「なに?」
数日前に切り揃えてやった前髪の下から、黒目がちな双眸がこちらを見つめている。
「花音のこと」
おれの言葉に笑みを深くして、それから悲しそうにぎゅうと抱きついた。
「これも忘れちゃうんだね、いつか。嫌だな、覚えてたい。大人になんて、ならなかったらいいのに……でも、恵ちゃん」
「うん?」
「いつかは、死んじゃうんだもんね」
そうだ、人は死んでしまう。老いて忘れて、消えてしまうのだ。
花音はそれを異常なほど恐れていた。
死にたくない、老いたくない。忘れてしまいたくない。だから、大人になりたくない。
「護るよ」
花音、おまえを護るよ。
十七歳にしては幼い言動、風貌、行動。全て彼女の精一杯の抵抗なのだ。愛しい、と思う。そんな彼女が愛しくてどうしようもなく好きで、常識とか世間体とか、人生だとかそういうものすべてを放り出しても護りたい。
小さな背中を擦る。
ふいに、ぼとりと音がした。
薄い桃色の椿の花が、黄緑の上落ちている。
見せるものか、こんな風に死なせてなるものか。おれが護る。
「花音の為の腕だよ」
その為でなければ、何が為だと言うのだ。
「恵ちゃん、好き。だから、忘れないでね」
「忘れないよ」
例えどんな数式を忘れても、どんな思い出が抜け落ちようとも、とても大切な人の為のおれでいた時間だけは忘れない。
花音。
手を優しく頭の後ろにやって、それから噛み付くようにキスをした。短い間、彼女が憂いを忘れる為だけの口付け。
「痛い」
彼女は唇を尖らせ、それでも笑った。
少し赤くなった唇に、自分のリップクリームを塗ってやる。
「なんで持ってるの」
「春でも乾燥するから」
「ふうん」
首を傾げた彼女の白く柔らかい手を掴み、爪が長いのに気が付く。
「爪、切ろっか」
「うん」
頷いた彼女がご機嫌に、ねえ今日はピンクのマニキュアを塗ってよとせがむ。
「いいよ。どのピンク? ラメ?」
「ううん、あのね、あの椿みたいなピンクがいい」
あんな薄い控え目なピンク色があっただろうかと、記憶を辿る。ああ、あったかも知れない。ラメもパールも入らない薄ピンク。
あの色はすごく綺麗ではなかったか。きっと、花音の小柄な爪によく似合う。
「ん、わかった」
「やったぁ。恵ちゃん、ありがとう」
腕の中から離れて、踊るように部屋の中に入っていこうとする花音を慌てて引き留める。
「花音! 足を洗ってからだろ」
「……はーい」
ホースの繋がった蛇口を捻り、水に晒す足を見て、その爪もピンク色にしてしまおうと思った。
花音、おまえの体を空気に晒すのさえ怖い。
小さな小さなこの熱の塊を、どこか遠くの国へ連れて行ってしまいたい。
椿など咲かない、大人になどならない、ネヴァーランドのようなところがいい。
ぼとり。
ああ、花の落ちる音がする。
カメリア、と声がした。いつの間に知ったのだろうか、その椿の英名は花音の唇からこぼれ落ちた。