世界は笑う
桃色に光った唇をよく覚えている、そこに口づけたいと思って見ていたから。
リップクリームの味がするのだろうかなんて、どうでもいいことを考えた。
とにかく、しあわせでいたかったのである。
そしてさみしく、一人ぼっちかと聞かれればそうかもしれなかった。
海から攫われた魚のような気分になって、浅い呼吸を繰り返す。いくらそうしたって到底楽になどなれそうもなかった。
ぐるん、そうして地球が回るように、わたしもでんぐり返しをしてみる。
何かを変えようとして、動かそうとして。
想いは切実だった。
お風呂に入る時は生まれる前に母の胎内でそうしたように、体を丸めて沈んだ。
遠い記憶を思い出したいと焦がれるように思った。
夜は影すらもどこかへ帰ってしまって、たった一人になるからだ。
近所の人はみんなよくしてくれた。
父も母ももうなくて、けれど生活に困ったりはしなかった。
でもどうしたっていつも死にそうに生きていた。
何かに追われるように、それから逃げるようにと日々が過ぎる。
何故だか、悲しみの色を知っている気がした。
部屋の壁を青く塗る。
ペンキを何度も何度も、壁を殴りつけるように重ね続けた。
その色は海の色であり空の色であり、悲しみの色だ。
私の部屋は地球だ。
世界には私しかいない、ただひとり遠い昔そうだったように空に浮いている。
眠るようにして目を閉じて、シンナーの臭いを吸い込んだ。
台所に沈めた時計は、まだ律儀に秒針を動かしている。
ああ、わたしのようだ。とっさに飛び起きて包丁でとどめをさした。
また一つ死んでしまった。
わたしを囲む全てが優しく謙虚だ。
だって時計はダイイングメッセージすら残さずに主の我儘を聞いたのだもの。
それなのに、いやそれだからこそなのかもしれない。
淋しかった。
もっと音楽が欲しい。
誰かの鼓動、野菜を刻む音、やかんの悲鳴。
それらすべてをわたしはすでに失っている。
走ろうと思った。
外界に出て、どこまでも遠く遠く走ろう、そうすれば帰って来た時全てが戻っているかもしれない。
外はもう夏が過ぎ去り、秋を匂わせていた。
木々が少しだけオレンジ色に染まり、太陽は沈もうとしている。
宇宙は、とても賑やかだった。
喧騒の中を走る。
その途中で犬が三回ほど私に吠えた。そしてまた飼い主だろうおばさんが犬に吠えた。
構わず走る、走る走る走る。
ふと、柔らかい感覚がして、誰かにぶつかったのだろうと思った。
久し振りすぎるその温かさに私は果てしなく泣きたくなる。
「こんばんは」
ぶつかった相手はそう私につぶやいた。
桃色の唇が動く。
あ。
「柿……なんだっけ?」
「柿本だよ」
そうだった、柿本純。たまにあたしの世界に入り込んでくる、不思議な宇宙人。
「どうしたの、君の世界はここじゃないだろうに」
「走りたくなったの、そうしたら全部戻ってくる気がして。でもきっともう戻らない。時計も父も母ももう還らない」
そういえば部屋を青く塗ろうと思った時、彼がペンキを片手にチャイムを押したのだった。
あの時どうして彼を家にあげたのか、私にはよくわからない。
「戻らないなら、作ればいい」
そうでしょ、とあんまりにもやさしく笑ってみせる。
そういえばまだ学校と言う場所にいたころ、彼は放課後のグラウンドを必死に駆けていた。そしてわたしはどうしてか、それを見ているのが好きだった。
「柿本くんがグラウンドを走ったように、わたしも走ってみたけどだめみたい。何かを創造する力なんて持ってないもの」
そうだ、そんな力があるならもっと何かを愛せているはずなのだ。
「そんなことないよ、君が走るのを僕は知らなかった」
淋しそうに微笑んで、そっと耳打ちをする。
そんな柿本くんはどうしてか好きじゃないと思った。
「それはおめでたいこと?喜ばしいことなの?」
「そうかもしれない」
「じゃあ笑ってよ」
うん、そう、笑って欲しい。
柿本くんだけじゃない、犬にも、飼い主のおばさんにも。
みんなが笑う世界がいい。
「……ひとつ我儘いいかな」
「うん」
「ペンキを買いに行かない?」
それは画期的な提案だと、わたしは思った。もうわたしの世界なんてなくていい。地球は青かったなんて、どうしようもない嘘だと思う。
「何色がいいの」
「うーん、何色が好き?」
ずっと忘れていたようなことを聞かれて、胸の奥がくすぐったくなる。
「ふふ、可笑しい」
「どうして?」
「小学生の質問みたい。家に来たこともある柿本君が、そんなこと聞くなんて」
「だって、僕はもう君の何も知らないんだ。だから教えてよ」
「そうだね。じゃあ、じゃあね」
虹色がいい。
そう告げると彼は苦笑して仕方がないなと言った。
もっともっと欲張って、困らせて、それでも柿本くんはまた仕方がないなと笑うだろうか。
虹色に染め直した私の部屋で、何度も何度も笑ってくれるだろうか。
「わたしね、柿本くんの唇が好き」
「ありがとう」
ああ、桃色の唇が綺麗に弧を描く。美しく光が反射して眩しい。
ずっとこの笑みに憧れていたのかもしれない。
「柿本くん、わたしはリップクリームが欲しい」
「どんなやつ?」
「柿本くんと同じやつ」
「了解」
にやりと柿本くんが白い歯を見せて、わたしの腕を捕まえた。
強い力で引かれる。
ぐらり、わたしが23.4度傾いたとき、そっと唇が触れ合う。
「もう、仕方がないなぁ」
わたしがそう言って笑う。柿本くんがわたしの前で初めて声を出して笑った。
くくくっと喉が鳴るのを聞くと、音楽に飢えていた自分を思い出した。
大丈夫だよ。
心の中で自分に言う、過去の自分に教えてあげるみたいにして。
もう、何もいらない。
世界と、宇宙と、柿本くんと。
わたし。
さあ、笑え。