季節に負けないひとつの方法
ごとり、そんな音を追いかけて手を伸ばす。よく冷えたペットボトルを見えない先で捕まえた。
不健康に黄色いレモン味の炭酸水を、一気に飲み干すのが好きだった。
果汁1%以下、と言うのが一番のお気に入りだ。そして次に、喉や胃を焼き尽くしてしまいそうな感覚。いつか噂で聞いた骨を溶かすなんてことが出来るなら最高だ。
これほどあたしを殺してしまいそうなものはない、と思う。
殺されたい。
そんな焦燥をきっと誰も知らない。炭酸よりずっと強くあたしを焦がしてしまいそうな。
「ねえ」
静かに、それはそれは上品にミルクティーを飲む彼に声を掛ける。
「どこへ行くつもり」
すると彼はペットボトルを口から離して、そっと笑った。
「きみは聡明だね」
聡明なのはあなただろう、と心の中で思う。あたしは彼の学歴も教養も知らないけれど、それでもあたしよりずっと賢いだろうことはわかっていた。
「おれはどこへ行くんだろうね」
「知らないの」
「世界の端っこにでも行ってみようか」
「それ、怖くない?」
「少しも」
さっきから一つも顔色を変えないで、淡々と答える。いつもの彼だった。
彼は殺されたいなどと思ったりしないのだ。あるいは人がいつか死ぬことさえ知らない。彼は賢くて、それから世間知らずだ。
今思えば、あれは春の始まりだった。
「連れていって」
一人の男が、あたしを見上げて言ったのだった。
小奇麗な格好をしていた。青いストライプのシャツに黒いズボン。荷物らしきものは見当たらない。
欠片も悲しそうには見えなかった、ただちょっとだけ淋しそうに思えた。
「どこか行きたいの?」
「帰りたいんだ」
返事もせずに歩きだせば、彼はついてきた。あたしがあたしの家に帰るまで、二人とも黙って歩いた。
「ただいま」
鍵をあけて家の中に入ると彼が言うので、おかえりと返すと、至極嬉しそうに微笑む。
今まで見たどんなものより綺麗だと思った。
それからどれだけ経っただろう、もうすぐ次の季節がやってくるような暑い夜になって、ふと考える。
彼は、いつ行くのだろう。どこへ、誰の元へ、帰る場所があるのだろうか。
留めたいと考えて、ひどく殺されたくなる。レモン味の炭酸を飲み干す。
だって。
「だって、もう一人じゃない。絶望などしない、怖いものだってないよ」
そうだ、もう一人じゃない。
彼のことを春だと思う。ぼんやりと訪れて、知らぬ間に去ってゆく、そんなものに形容するのが正しい。
けれどそれは怖い。
夏になってから気づくのでは遅いのだ。流れを止められぬのなら意味がない。
一人じゃない、それ故に殺されようと思った。
一番傍にいる彼に。
多分、殺めるなんて知らない、その手に。
護りたい、護られたい、傍にいたい、失いたくない、止めたい、いなくならないで愛して。
二人で使う部屋の狭さを知って、二人で寝る夜がとても短いことに気がついた。
寝苦しさを忘れ、深い眠りに包まれる。
死にたくなどない。
「ひとつ、お願いしていい?」
彼は簡単に頷いて、またペットボトルを煽った。
「連れていってよ」
日に焼けていない、白い喉が動く。潤ったその喉で、彼は何を紡ぐだろう。
「あなたといないと、世界が終わってしまう気がするから」
「殺してほしい?」
ああ、驚いた。そんな言葉を知っていたのか。
ミルクティーに冷やされた言葉は、どこかまろやかだ。
「違う、違うよ。ただ、生きていたい」
「じゃあ、行かないでって止めてよ。おれには帰る場所なんてない、また誰かに拾われるのも億劫だ。おれはもう一人じゃない、そうだろう?」
「うん」
「そしてきみも一人じゃない、あの家はお菓子の家よりも素敵だ」
そういえば今日、彼はあの日と同じストライプのシャツを着ている。
行ってしまうのだ。
「だけど行くよ。もう時間だからね」
「どこへ」
「きみの知らない場所へ。きみが世界中を知っていると言うのなら、宇宙だっていい。行くよ」
「いつか、帰ってくるんでしょ」
「それを信じるのがきみの役目だろう。だっておれはきみをとても好きなんだ」
きっとその季節は春だ。柔らかくて心地のいい、そのままの彼だから。
これからは、あたしの一番好きな季節になる。
もうレモン味の炭酸水は飲まなくていい。
喉を潤すのには甘いミルクティーで十分だ。
殺されたかったあたしは、焦げ付くように生きたくなる。
残念なことに、あたしのスキルには愛する人への縋り方がないのだ。
「ねえ、夏がくるよ」
「知ってる」
そうだろう、あなたは誰よりも死ぬほど強くそれを感じているのだろう。
「あなたが帰ってきたら、海水浴をしよう」
それから松茸や栗を食べて、二人で雪だるまをつくろう。
あたしたちは季節になど負けたりしない。
「うん、いいね」
あたしはきっと生きるだろう。例え地球が滅亡して、誰もが生に絶望しても、それでもちゃんと生きるだろう。
彼が帰ってくる、その季節を待ちわびて。それまで、ただいまは言わない。おかえりなさいも取っておこう。
作品名:季節に負けないひとつの方法 作家名:こはな