救済ではない
なんだかとても死にたい気分だった。
いまわたしの目の前には淡い茶色い髪をした男の人がいて、その人はとても清潔な白を纏い笑っている。この人が白以外を着ているところも、笑っていないところも見たことがない。
彼はいつでも笑っていた。
白いのは彼だけでなく、わたしを囲む全てが白かった。壁も床も布団もすべて白い。
「また死ねなかったの?」
まるでココアのような声音で彼は語りかけた。
また、とは言うけども、わたしが自殺を図ったのはまだこれで二回目だ。その表現はこの場合不適切ではないだろうか。
そんなことを心の隅に浮かばせても、この焦がれるような想いはどうにも消せそうになかった。
「……いますごく死にたい」
「でも残念ながら、ここには薬も刃物も鈍器もないよ」
「あなたの手がある」
その大きな、さらりと乾いた心地のいい手のひらで殺してくれればいい。わたし、その手が案外熱っぽいのを知ってるんだよ。
「おれの手は、殺すためにあるんじゃないからね」
「なんのためにあるんですか」
「許すために」
彼はそう言うと、その許すための手でわたしの髪の毛を梳いた。やはり少し熱い。
「もう、いいんだよ」
わたしは死にたくなる。とてもすごく、この上なく死にたくなる。
だってあなたは許すから。そうやっていつもこの世の終わりみたいな、ひどくやさしい顔をして許してしまうから。わたしはひどく切なくなる。
「もういいよ。笑わなくても泣かなくても、痛くしなくても、もういいんだよ。生きなくていい」
腕に走るたくさんの線を熱い指先がなぞる。ひとつひとつ数えるみたいにして、癒すみたいにして。わたしが切り裂くよりずっと遅く、そして確実に傷に触れた。それがどうしようもなく痛い。
「もう、死のうとしなくていいよ」
彼は一度も怒らなかった。処方された薬を飲まなくても、衝動的に傷つけても、たとえ死のうとしても。
怒ったり泣いたり、呆れたりしなかった。
ただ笑ってもういいよと繰り返すだけなのだ。
救いたいと思った。
「だって、わたし、あなたを救いたい」
救いたいと思った。傷を作り、立ち止まり蹲り、薬でやっと生活をまともにできるわたしよりも、ずっと悲しいこの人を、どうしても救いたかった。
「死にたいんです、すごく。先生は悲しい時もそうやって笑うから。わたしの方が苦しんです」
可哀相なくらい優しい人。
「もう、いいんです」
笑わなくても許さなくてもいい。あなたは怒れるし、わたしを殺すことだって出来る。
「おれは、幸せだよ」
だから、いいんだよと言う。泣きながら、初めて笑顔を崩しながら、震える手でわたしの体を掻き抱いた。
「伊織先生、涙ってあったかいんですよ」
知らなかったでしょう。その無意味なしょっぱさも嗚咽の苦しさも、知らなかったでしょう。
「……うん、そうみたい」
「わたし、死にたいんです」
「うん」
でも生きてよ、と彼は言うのだ。子供のように駄々をこねるみたいにして、下手くそに泣きながら。
「死なないでよ」
やっとそうして、留めてくれるのか。その温かい腕に抱いて、強く強く言葉より確かな力で、わたしを生かしてくれるのか。
「捨てるなら、おれに頂戴」
この人を救いたいと思った。そしてまた救われたいと思った。
一方的なのではなく、愛し愛されるように、わたしは彼に救われたかった。愛されたかった。
「ねえ、留利ちゃん。その薬指と一緒に、全部頂戴」
「でも、わたしの腕、汚いですよ」
「汚くないよ」
「食べるのも寝るのも大変だし、おしゃれとかできないし」
「うん、知ってる」
「また死のうとするかも」
「ん、いいよ」
こんな風にして許されたかったのだ。わたしの全てをわたしと認め、そして抱えてほしかった。
「全部、おれのものにさせて」
手を伸ばして、濡れた頬に触れた。彼が欲しがった、左手の薬指で拭う。
幾度となく己の肌に酷くしてきたその指先は、いとも簡単に愛する人の悲しみを拭いとった。わたしは殺そうとしたことのある手で、誰かを生かそうとしている。
生きようとしている。
「先生、眠い」
久しぶりに、ひどく眠かった。何かにさらわれるみたいな感覚がして、現実が遠のく。
「いいよ、おやすみ」
今度は彼の指先がわたしの目蓋に触れる。わたしとは違う、何人も救ってきたはずのそれは、なるほど、とても温かだった。
それでも、言えるのだ。
彼がわたしにしたことも、わたしが彼にしたことも。それは決して、救済ではない。