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私家版 赤ずきん

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少女が赤い頭きんをかむっていたのは、ぐうぜんだった。ただ、赤くなったのは必然。
 少女は、ケガを負っていた。肩先の皮膚が裂け、こめかみからも血が流れ、べったりと頬に髪をはりつかせていた。
 日がくれるよりも少し前、さむさに耐え切れずに、とおりがかりの老婆からショールをうばって走った。
『泥棒!はやく捕まえて!』
 追いかけてくるしわがれた声に、立ち止まった男が少女を捕らえた。少女がもがくと、頬をぶたれた。暴れて、逃れた先に、またひとり、もう少し若い男。腹をなぐられ、背中を蹴られ、いつか路上に繰り広げられるショーの主役に成り果てて。
 抵抗を止めて、ようやく嬲るのに飽きた手から逃れて、歩いた。歩いて、歩いて、たどり着いたのは黒い森。
 足を止めたころには、クリイムいろのショールが真っ赤に染まっていた。それだけのこと。
 空には、ぽっかり二日月。
 紺いろの画用紙につめを立て、ひらいた穴の向うから、真白な乳が注がれて。
 乳色に降る光の中だけ、清廉になる空気。
 ――うそつきだ。
 少女の呟きは、口から外へ出なかったのか実際にこぼれたものか、いずれにしても耳にする人間はいない。
 闇の包み紙で何もかも覆い隠して、綺麗なフリをする紺色の夜。
 ――うそつきだ。
 少女自身の耳にすら届かない、小さな呟き。胸の奥にだけ広がる、つぶやき。
 ドロボウ
 ハヤクツカマエテ
 耳の奥、追いかけてきたしわがれた声が甦る。しがみついてきた枯れ枝のような指を思い出す。
 本当は、立ち止まりたかった。
 憎しみに浸されていてさえ、老いた声が懐かしかった。少女を腕に抱こうとするものなど、もう居ないから。
 唯一、自分を抱き締めた、老いた声の枯れた指のおんなのひとは、もういない。
 盲の祖母は、森に近い小さな小屋で、飢えた男に殺された。月のない夜にひっそりと、全身真っ赤に染められて。
 奪うものなど存在しなくても、疑いさえ生まれれば、狩りは行われてしまう。いつしか狩ることが目的に摩り替わる。
 本当は、誰もみな、狩人なのに。
 夜はそれを見て見ぬ振りで、騒ぎは朝に押し付ける。
「ウソツキ」
 やっと空気を震わせることの出来た呟きは、すぐに低いフクロウの啼き声に掻き消された。少女の足は、もう動かない。地面についた膝を、土が汚した。
 がさり
 草の鳴る音に、びくっと身体が震えはしたが、少女は力が入らずへたり込むだけだった。逃げることも、隠れて様子を伺うことさえ、出来はしない。
 現れたのは、オオカミだった。
 一匹きりで、ふぐふぐと鼻を蠢かし彷徨うように頭を振りながら歩いてくる。そして、そのまま少女の身体にぶつかった。
 大きく口が開き、長い舌が見える。
 このまま牙を突き立てられれば、絶え絶えな息の根も止められてしまう。
 少女の身体は恐怖に竦んだ。
 べろり
 伸ばされた舌が、少女の流れた血の痕をぬぐうように這わされる。べろべろと顔中を嘗め回されながら、少女の頬は舌肉の熱に次第にあたたかくなる。
 垂れた前髪の間に張った唾液の膜がぼんやりとオオカミの輪郭を映し出す。
 ぷつり
 膜が割れると、すぐそこに大きな目があった。歪んだ笑みを浮かべているようだった。
「おばあ、ちゃん」
 祖母と同じ、閉じられたままの瞳。
 鼻先がひっきりなしに湿った音を立て、飛沫が散る。
 かまわずに、少女はオオカミの毛並みに手をすべらせ、首を抱いた。
「あたしを、狩らないの?」
 答えは無い。
 ただ、鼻を鳴らす音だけが響く。
「あなたは、狩らないのね」
 光の糸が覆う少女と獣。
 嘘吐きとののしった夜に包まれて。
 少女は、ひとときの温度に目を閉じて、何年かぶりでほほ笑んだ。
 そのまま眠りに落ちた少女からオオカミは離れていく。
 盲のオオカミ。蓄膿症のオオカミ。
 少女を視ていない、匂いすら感じない、故に狩らなかったオオカミ。
 刃にまだ野ウサギの血をこびりつかせたままで、腹がふくれていたから、少女の重みを気にも留めなかったオオカミ。
「あいしてるわ」
 紺の闇夜に、ぷかりと浮いた少女の言葉。それが最後の一葉になるか、去っていく獣のの耳にとどくか、だれもしらない。
 闇と月とは見ない振り。
 いずれ朝日が、ピリオドだけを打ちに来る。
作品名:私家版 赤ずきん 作家名:さふらん