つくも神
というのが無人になると、どうしてこう不気味なのだろう。
まるで、よどんだ水のたまった水槽のようだ。
「来年から、おれもこういう場所で働くんだよな」
このバイトを始めるちょっと前に、俺は一応知名度がある会社から
内定通知を貰った。親はこれで安心ね、と喜んだが
首輪みたいなネクタイをつけて、窮屈なスーツに包まれて
一生この水槽みたいな部屋で働くのか、と思うと
肩に鉛が乗っかったようなこりを感じる。
「・・・・でしょ。思ったとおり」
唐突に聞えた声に、俺ははっと我に帰った。
慌てて耳を澄まと、シーンとした静寂だけが返ってくる。
「・・・・空耳か」
わざわざ俺は声に出して確認した。
制服の奥で心臓が下手くそなタップダンスを踊っている。
昼間にホラー映画なんか見たせいだ。
俺は自分に言い聞かせる。
ここは、山奥の村でも、廃校でもなく、都心の一等地
このフロアは無人で暗闇に沈んでいても、すぐ下のフロアでは
午前2時までレストランが開いている。
こんな場所に幽霊なんかでるわけがない。
「・・・・・だから、こんな場所に移るのは反対だったのよ」
又聞えた。今度ははっきりと。若い女性がしゃべってる。
「だ、誰かいるんですか」
震える声で、俺は聞いた。
落ち着け、落ち着け、と念仏のように唱えても、足ががくがくとする
不審者を見つけたら、すぐに警備員室に連絡を入れて、
頭の中をマニュアルが駆け巡る。
懐中電灯の丸い灯は、殺虫剤をかけられたゴキブリのようにむちゃくちゃな
軌跡を描いて部屋のあちこちを照らした。
返事は、ない。誰かいる様子もない。
おれは恐る恐る廊下に出てみた。
遠くにぽつんと非常口の白々としたライトが見えるが
人影は皆無だ。隠れる場所もない。
なのに、なのに
聞えるのだ。何を言っているのかは分からないが、さっきの若い女性の声に
くわえて、中年の男の声、まだ舌足らずの幼児の声、しわがれた老人の声
5人以上の人間が話してる。
「だ、だれだ、どこにいる」
俺は右に左に、懐中電灯を振り回した。
と、ドアの横、会社名がかかれているプレートを光の輪がとらえ、
同時に俺の目も釘付けになった。
つやを抑えた銀色のプレート、そこに黒字で書かれた会社名
そのしたに、紛れもない小さな唇がうかんでいる。
すとん、と視線が下がった。
ああ、これが腰を抜かすということか。
妙に冷静に俺は考えていた。