金星人の硝子
最近自分はどうも調子がよくないようだと言ったら、キリはあなたのはつおんてへんねと言った。
僕は彼女の言ったことがよくわからなかった。
そういうのはわりによくあることだ。僕は知能が低いわけではないのだけれど、どうもひとの話を聞くのが下手なのだ。ひとの言葉がうまくききとれないのだ。しかし聴力に問題があるのではない。ひとの言葉は時々、ただの音としてしか僕の耳を通らない。ひとの発する声が大抵意味をもった言葉であるということ、ことばであるということを、僕の耳は時々忘れてしまうようなのだ。とくに会話の内容がいきなり飛んだり、余りにも予想の外から答えが返ってくるときなどは、かなりの確率で声が言葉として聞こえない。だから今もそのようなわけで、僕はキリの言ったことがよくわからなかった。
キリは自分の発言に対して僕がなんらかの反応を返すことを望んでいる様子だ。でも僕はなにも言うことができない。だって彼女がなんと言ったのかわからないのだから。
そう思って、ああ僕はキリに聞き返さねばならないのかと気づいた。僕はキリにいまなんと言ったの、と聞かねばならないのだ。キリは僕が彼女の発言を理解できなかったことをわかっていないのだ。だから僕は彼女に質問し、自分が彼女の発言を理解できなかったことを知らせて、もう一度同じことを言ってもらわねばならないのだ。そうしなければ会話が止まってしまうのだ。そう気がついた。気がついて、そして自分のものの考え方はなんだか随分遅くなっているぞと思った。聞き取れなかった発言を聞き返すことくらい、考えずとも反射でできていいはずだ。頭の回転がどうにも鈍くなっている。
「貴方の発音って変ね」
と、彼女は言ったのだった。新たに二度くりかえしてもらって、ようやく聞き取れた。
そうだろうか、と僕は答えた。
「うん。変というか、発音が悪いわ、前から思っていたけど」
キリは言った。発音が悪い?そのように言われたのは初めてのことだ。
僕の声は聞き取りにくいのかい、と訊ねると、そうではないと言う。
「発声は明瞭よ。ただ音が少しおかしいように聞こえるわ。方言?」
僕は生まれも育ちも東京だ。
「じゃあ単に発音の問題なのね。なんだか貴方の言葉って、変わって聞こえるのよ。さっき、最近どうも調子がよくないようだ、って言ったじゃない?それがね、こう聞こえるのよ」
最近だうも調子がよくないやうだ。
「というふうにね。とうきょう、というのもとうきゃう、と聞こえるわ」
そうだったろうか。
「なんだか古い言葉のようよ。貴方、話し方自体も少し古いようだし。なんだか文章を読んでいるみたいに聞こえるわよ」
そうだったろうか。よくわからない。しかしひょっとして、そのことで彼女はなにか不愉快な思いをしているのだろうか。
「ああ、別にそういうわけじゃないわ。その話し方で全然構わないのよ、意味は通じてるんだし。ちょっと面白いなと思ったのよ。悪いと言ったわけじゃないの」
キリは微笑んだ。彼女の笑う顔は可愛らしい。目が細まって、幸せそうに見える。顎の辺りでそろえられた髪が光を受けてつるつるとしている。僕は彼女が不愉快な思いをしていたわけではなくてよかったとおもった。
「それで、調子がよくないんですって?」
そうだった。その話をしていたのだ。最近、僕はどうにも、いろいろと調子がよくないのだった。
耳鳴りが、と僕は言った。耳鳴りが酷いのだ。他にもいろいろと調子がよくないのだが、それが一番説明しやすかった。耳鳴りが酷いこと。
「耳鳴りねえ」
それは本当に酷いのだ。以前からよく晴れた日に外にいると、ふときいいんと耳の中を響いていくことがあったが、そんなのは誰にだって起こることだ。けれど最近僕の耳を貫く音ときたら、大きさ、するどさ、そしてその響く時間の長さと頻度、すべて尋常でない。あるときなどあんまり長くいいいいと鳴っているものだから、僕は立ってさえいられなくなった。目眩もした。耳鳴りに気をとられすぎて、知らず呼吸がおろそかになっていたのだった。酸欠になり、頭が痛んだ。けれど耳鳴りのことがなくとも、鈍い頭痛を常に感じていた。思考力の低下はそのためだろう。僕は普段がまるきり健康なものだから、こういうときどうしたものかわからなかった。耳鳴りも頭痛も確かに不快だが、医者に行くほどつらくはないという気がする。また市販の痛み止め等を買って服用するほどでもない気もする。
キリは僕をじっと見た。
「ストレスが溜まっているんじゃないの」
彼女は言う。僕は考える。ストレス。精神的な苦痛。
それはなずなだ。なずなのことしかない。
僕の思いを見透かしたかのように、キリは言う。少し言いにくそうに、ゆっくりと僕に訊ねる。
「あの、前の彼女のこととか、いろいろあったんでしょう?そういうこと、貴方は平気だって言ってたけど、やっぱりストレスになってたんじゃないかしら」
僕は考える。なずなが僕のストレスになっているのかどうかを考える。けれど回転のすっかり鈍った僕の頭は、なずなについて考えることを拒否する。彼女について、今はなにも考えたく無い。考えられない。それは多大な労力を僕に必要とさせる行為だ。今の僕にはそれはできない。そのことで疲れたく無い。
「私だったら、眠るわね」と、キリは言った。僕はまたその言葉を上手くききとれなくて、もう一度言ってもらった。
「私だったら、そういう辛いときは眠るわね。予定も何も全部キャンセルして、ずっと眠るわ」
出た、と僕は思った。キリはよく、嫌なことがあったときは眠ってしまうに限るという自説を持ち出す。
キリは自分の殻に籠りやすい性格なのか、なにか問題が起こるとすぐに眠りに入ってしまう。睡眠に逃げているといってもいいかもしれない。辛い目にあうとキリはいつも、脳が溶けてしまうのではないかと思うくらい長く眠るという。こんこんと眠って、眠って、目覚めたときには眠りの原因になったできごとはほとんど忘れられるらしい。勿論そういうことがあったのは記憶しているが、そのことで感じた心の痛みは百年も昔につけられた傷のように薄れているのだという。そんなことがあるものだろうかと、僕などは思う。そんな眠りがあるのだろうか。
けれどそう語るキリの表情は真剣で、冗談や強がりを言っているようには見えない。彼女はきっと、眠ることに長けたひとなのだろう。そうでなければ、眠るという行為と彼女はとても相性がいいのだろう。寝つきも寝起きも悪い人間である僕から見ると、なんだかうらやましいような気がする。きっと彼女の眠りはとても健やかなのだろう。
ふと僕はキリについて思う。おそらくキリは、なずなとは気があわないだろうな。
なずな。
なずな。
彼女のことは考えたく無いと思ったはずなのに、考えるという間もなく彼女のことを思ってしまう。
どうしようもないな、と僕は思う。本当に、どうしようもない。
どうしよう、という言葉の響きに、僕は先程キリに指摘された、自分の発音について考えた。
最近どうも調子がよくないようだ。
最近だうも調子がよくないやうだ。
僕は彼女の言ったことがよくわからなかった。
そういうのはわりによくあることだ。僕は知能が低いわけではないのだけれど、どうもひとの話を聞くのが下手なのだ。ひとの言葉がうまくききとれないのだ。しかし聴力に問題があるのではない。ひとの言葉は時々、ただの音としてしか僕の耳を通らない。ひとの発する声が大抵意味をもった言葉であるということ、ことばであるということを、僕の耳は時々忘れてしまうようなのだ。とくに会話の内容がいきなり飛んだり、余りにも予想の外から答えが返ってくるときなどは、かなりの確率で声が言葉として聞こえない。だから今もそのようなわけで、僕はキリの言ったことがよくわからなかった。
キリは自分の発言に対して僕がなんらかの反応を返すことを望んでいる様子だ。でも僕はなにも言うことができない。だって彼女がなんと言ったのかわからないのだから。
そう思って、ああ僕はキリに聞き返さねばならないのかと気づいた。僕はキリにいまなんと言ったの、と聞かねばならないのだ。キリは僕が彼女の発言を理解できなかったことをわかっていないのだ。だから僕は彼女に質問し、自分が彼女の発言を理解できなかったことを知らせて、もう一度同じことを言ってもらわねばならないのだ。そうしなければ会話が止まってしまうのだ。そう気がついた。気がついて、そして自分のものの考え方はなんだか随分遅くなっているぞと思った。聞き取れなかった発言を聞き返すことくらい、考えずとも反射でできていいはずだ。頭の回転がどうにも鈍くなっている。
「貴方の発音って変ね」
と、彼女は言ったのだった。新たに二度くりかえしてもらって、ようやく聞き取れた。
そうだろうか、と僕は答えた。
「うん。変というか、発音が悪いわ、前から思っていたけど」
キリは言った。発音が悪い?そのように言われたのは初めてのことだ。
僕の声は聞き取りにくいのかい、と訊ねると、そうではないと言う。
「発声は明瞭よ。ただ音が少しおかしいように聞こえるわ。方言?」
僕は生まれも育ちも東京だ。
「じゃあ単に発音の問題なのね。なんだか貴方の言葉って、変わって聞こえるのよ。さっき、最近どうも調子がよくないようだ、って言ったじゃない?それがね、こう聞こえるのよ」
最近だうも調子がよくないやうだ。
「というふうにね。とうきょう、というのもとうきゃう、と聞こえるわ」
そうだったろうか。
「なんだか古い言葉のようよ。貴方、話し方自体も少し古いようだし。なんだか文章を読んでいるみたいに聞こえるわよ」
そうだったろうか。よくわからない。しかしひょっとして、そのことで彼女はなにか不愉快な思いをしているのだろうか。
「ああ、別にそういうわけじゃないわ。その話し方で全然構わないのよ、意味は通じてるんだし。ちょっと面白いなと思ったのよ。悪いと言ったわけじゃないの」
キリは微笑んだ。彼女の笑う顔は可愛らしい。目が細まって、幸せそうに見える。顎の辺りでそろえられた髪が光を受けてつるつるとしている。僕は彼女が不愉快な思いをしていたわけではなくてよかったとおもった。
「それで、調子がよくないんですって?」
そうだった。その話をしていたのだ。最近、僕はどうにも、いろいろと調子がよくないのだった。
耳鳴りが、と僕は言った。耳鳴りが酷いのだ。他にもいろいろと調子がよくないのだが、それが一番説明しやすかった。耳鳴りが酷いこと。
「耳鳴りねえ」
それは本当に酷いのだ。以前からよく晴れた日に外にいると、ふときいいんと耳の中を響いていくことがあったが、そんなのは誰にだって起こることだ。けれど最近僕の耳を貫く音ときたら、大きさ、するどさ、そしてその響く時間の長さと頻度、すべて尋常でない。あるときなどあんまり長くいいいいと鳴っているものだから、僕は立ってさえいられなくなった。目眩もした。耳鳴りに気をとられすぎて、知らず呼吸がおろそかになっていたのだった。酸欠になり、頭が痛んだ。けれど耳鳴りのことがなくとも、鈍い頭痛を常に感じていた。思考力の低下はそのためだろう。僕は普段がまるきり健康なものだから、こういうときどうしたものかわからなかった。耳鳴りも頭痛も確かに不快だが、医者に行くほどつらくはないという気がする。また市販の痛み止め等を買って服用するほどでもない気もする。
キリは僕をじっと見た。
「ストレスが溜まっているんじゃないの」
彼女は言う。僕は考える。ストレス。精神的な苦痛。
それはなずなだ。なずなのことしかない。
僕の思いを見透かしたかのように、キリは言う。少し言いにくそうに、ゆっくりと僕に訊ねる。
「あの、前の彼女のこととか、いろいろあったんでしょう?そういうこと、貴方は平気だって言ってたけど、やっぱりストレスになってたんじゃないかしら」
僕は考える。なずなが僕のストレスになっているのかどうかを考える。けれど回転のすっかり鈍った僕の頭は、なずなについて考えることを拒否する。彼女について、今はなにも考えたく無い。考えられない。それは多大な労力を僕に必要とさせる行為だ。今の僕にはそれはできない。そのことで疲れたく無い。
「私だったら、眠るわね」と、キリは言った。僕はまたその言葉を上手くききとれなくて、もう一度言ってもらった。
「私だったら、そういう辛いときは眠るわね。予定も何も全部キャンセルして、ずっと眠るわ」
出た、と僕は思った。キリはよく、嫌なことがあったときは眠ってしまうに限るという自説を持ち出す。
キリは自分の殻に籠りやすい性格なのか、なにか問題が起こるとすぐに眠りに入ってしまう。睡眠に逃げているといってもいいかもしれない。辛い目にあうとキリはいつも、脳が溶けてしまうのではないかと思うくらい長く眠るという。こんこんと眠って、眠って、目覚めたときには眠りの原因になったできごとはほとんど忘れられるらしい。勿論そういうことがあったのは記憶しているが、そのことで感じた心の痛みは百年も昔につけられた傷のように薄れているのだという。そんなことがあるものだろうかと、僕などは思う。そんな眠りがあるのだろうか。
けれどそう語るキリの表情は真剣で、冗談や強がりを言っているようには見えない。彼女はきっと、眠ることに長けたひとなのだろう。そうでなければ、眠るという行為と彼女はとても相性がいいのだろう。寝つきも寝起きも悪い人間である僕から見ると、なんだかうらやましいような気がする。きっと彼女の眠りはとても健やかなのだろう。
ふと僕はキリについて思う。おそらくキリは、なずなとは気があわないだろうな。
なずな。
なずな。
彼女のことは考えたく無いと思ったはずなのに、考えるという間もなく彼女のことを思ってしまう。
どうしようもないな、と僕は思う。本当に、どうしようもない。
どうしよう、という言葉の響きに、僕は先程キリに指摘された、自分の発音について考えた。
最近どうも調子がよくないようだ。
最近だうも調子がよくないやうだ。