「童貞×女好き」
声と一緒に、俺を掴んだ弟のこぶしは震えている。
逆光で表情は見えない。ただ俺の腕と胸を押さえきっている。
出かけようとしたら、声掛けられた。
今日は夕飯いらねーよ。
そう言おうと思って振り向いたら、思いっきり押された。
その勢いのまま二人とも盛大にこけ、俺は頭と背中をしたたかに打った。
「何しやがんだ。放せよ」
「嫌だ」
「何駄々こねてんだよてめえは!」
いつもは俺のやることに口なんか出さないものだから、
いったいこれはどうしたものなのかと俺は内心眉をひそめた。
その心境の変化を悟らせないように溜息ひとつ吐きながら、
弟の顔を睨むように見上げた。
けれどどれだけ眼を飛ばしても、ガッチリ固められたマウントは外れやしない。
「放せよ、待たせちまうだろ。デートに遅れるなんて男の名折れだ」
「もう兄貴行くなよ」
「ハァ!?ふざけんな。意味分かんねーよ」
意味の分からない行動ばかりか、
いつもは俺の言うことを聞くばかりの弟から意見されたことで、
どんどんと頭に血が上っていく。
弟の背中を蹴けらんばかりの勢いで足をがむしゃらにじたばたさせる。
けれど弟は山のように動かない。
「いいからッ、どけっ、って!」
「どかない。行かせない」
「だからなんなんだよ!てめえには関係ないだろうが!」
どれだけ力を込めても全く起き上がれないその状況に、
この瞬間においては普段の力加減が逆転しているのではという恐れが頭をよぎり、
その考えを追っ払おうととにかく俺はもがき続けた。
「なんでそんなしつけーんだよ!いつものことだろ、俺が夜いねーのは!」
「あけみ、だろ。今から会いに行くの」
呟くような弟の声に、俺は指から力が抜けた。
あけみ、それは弟の彼女の名前だ。
「何、お前、知ってたの」
「知ってるに、決まってるだろ」
ぽつぽつと降ってくる弟の声に、俺はようやくこの不可解な強引さに納得した。
「俺の、彼女だったじゃない、兄貴」
俺達、まだ手も握ってないんだぜ、そう言ってはにかんでいた弟の顔が頭によぎる。
「兄貴はいつだってそうじゃない。
俺の持ってるもの、しれっとしてかっぱらってく。
俺が苦労して手にしたものも、ふわふわしてる振りして遊びみたいに手に入れる」
「分かってたのか。しょうがねえなあ」
俺ははあ、と大きく息を吐いた。
「で、何、返してほしいの?別にいいけど。どうせもう、がはっ」
最後まで言い切る前に、ガツンと頬を殴られた。
初めて弟に殴られたその痛みに、俺はニッと笑った。
「でもよ、俺が悪いんじゃねーぜ。あいつから誘ったんだ。
俺はただその誘いに乗っただけだ。いつもそうだよ。
俺はただいい方向いい方向に流れてるだけだよ。てめーが不器用なだけじゃねーかよ。
頭の中でごちゃごちゃ考えてるだけでなんにも行動出来ねえうすのろがよ!」
玄関に響くぐらいでかい声で笑ってやった。耳の中で自分の下卑た声が反響している。
「別に、いいよ、もう」
「はあ!?いいのかよ!はっ、だからてめえは駄目なんだ、よ…」
思い切りあざけった瞬間に、弟の目が光ったように見えて、俺は一瞬たじろいだ。
「兄貴が何しようと別にいいよ、俺もう決めたから。
兄貴が二度とそんなこと出来ないように…壊してやる」
背中がぞくぞくと震えた。
俺が唯一執着する弟に、やっと振り向いてもらえた嬉しさにだ。
やっとお前も、俺に執着してくれる。
ふわふわしてる振りして、ずっとお前に執着していた俺にだ。
これを待っていたんだよ。
「だから…!」
声と一緒に、俺を掴んだ弟のこぶしは震えている。
いいぜ、俺はお前に流されてやるからよ、せいぜい力任せに俺を壊すんだな。