敗者
敗者
「たまらない」
苦渋に満ちた声が、唐突に彼の薄めの唇から零れた。両手の指を顔全体に這わせて、噛み締めた奥歯辺りから、獣にも似た呻き声が鈍い振動を持って零れる。
彼は泣いていた。号泣には程遠く、咽び泣きとも紙一重でそぐわず、例えて言うならば二月の冷雨に似たじとついた涙だった。
「たまらない」
もう一度、口に出さなくちゃ我慢できないとでも言いたげな口調で、同じ台詞が紡がれる。
僕は彼の唇を眺めている。淡く紫に染まった彼の唇は、それだけで不気味なイメージを僕に湧き起させた。だが、それ以上に、あれだけ傲慢な言葉を紡いだ彼の唇が挫折と屈辱と敗北感に震えている光景さは、口では言い表せない程、淫らで隠微な蠢きにも見えた。
彼の頬に手を伸ばして触れる。大袈裟に震える彼の身体を無視して、赤子のような産毛を掌でゆっくりと撫ぜる。真っ赤に染まった彼の眼球が信じられないものでも見るように僕を見上げる。
その眼球は兎と称されるような愛らしさを含んでいない。純然たる敗者の眼だと、僕は直感的に理解した。今まで勝者であり続けた人間が唐突に蹴落とされ、地面を這いずり、恥辱に打ち震えている憎悪の眼球だ。
目尻まで熱を溜め込んだ双眸を見詰めて、僕は零れる彼の涙を親指で拭う。熱湯のように熱いのではないかと想像した涙は、案外に冷たくて、涙よりも彼の頬の方がずっと熱かった。彼は肺に溜まった二酸化炭素を熱ごと吐き出しながら、ゆっくりと双眸を閉じる。
諦めの姿勢じゃない、再生の姿勢だ。
彼は壊され、そして再生する。
彼は今死んでいる。
瞼を開けば、彼は生き返るのだろう。
再び傲慢に、敗者を踏み躙り、君臨するために。
僕は死人にキスをした。紫色に染まった彼の薄い唇に触れて、僕もそっと眼を閉じる。そうして、彼が生き返るのを、息を潜めて待った。