月の守り人
名前はありません。前はありましたが、月の守り人となる際に捨ててしまいました。今では思い出すことも出来ません。
私のお仕事は果てしない平野の中で、与えられた懐中時計がある時間を指し示した時に梯子を立て掛けて、そのてっぺんにあるお月さまに、懐中時計とセットでついてあるゼンマイをお月さまに差し込んで回してお月さまを膨らませたり萎ませたりする事です。
真っ暗な新月から段々と膨らんで真ん丸な満月に。満月になったら段々と萎んでまた真っ暗な新月に。
お月さまの光はいつでも優しくて綺麗で、そんなお月さまの傍にいられるお仕事は好きです。
でも流石に一日に一巻きだけしかゼンマイを回すだけのお仕事には飽きてきてしまいます。
どんなに頑張っても一巻きしか出来ないのです。新月からいきなり満月にまで膨らませたりとかは出来なくてゆっくりと、ゆっくりとしか変化させてあげられないのです。
そんなある日、いつものように梯子を立て掛けてお月さまにまで届きそうなトコロまで来た時に、どこからか男の子がやってきました。
「ねぇねぇお姉さん! 何やってるの!?」
男の子はランドセルを背負って、興味津々といった瞳で私に訊いてきました。
「お月さまを膨らませているのよ」
「どうしてそんな事をするの?」
「ずーっと同じ形のままのお月さまだったら、皆夜は時間が経ってないのかって思っちゃうでしょう?」
「それもそうだね! それじゃあね、お姉さん!」
そう言って男の子は元気いっぱいに走っていきました。
それから私はいつも通り、ゼンマイを一巻き廻しました。
そうしてそれからまた少しして、今度は満月にほとんど近いお月さまの時、学生服を着た少年が来て不思議そうな瞳で私に訊いてきました。
「ねぇ君。一体何をしているの?」
「お月さまを膨らませているんだよ」
「どうしてそんな事をする?」
「同じ形のままのお月さまだったら、時間が経った事が分からなくなるでしょう?」
「あぁそっか。教えてくれてありがとう」
そう言って少年はスタスタと歩いていきました。
そして私はまたゼンマイを一巻き廻します。
今度は萎んでいく途中の半月に近い状態のお月さまの時に、スーツの上にコートを着た優しそうな中年の男の人がやって来ました。
「やぁこんばんは、お嬢さん。君は何をしているのかな?」
「お月さまを萎ませているんです」
「どうしてそんな事をするんだい?」
「お月さまが同じ形のままだったら、夜に時間の変化がなくなってしまうから」
「成る程。教えてくれて感謝する。それじゃあ」
そう言って男性は一礼すると帰っていきました。
そして私はまたゼンマイを一巻き廻します。
それから今度は。今度は
「おや、お嬢ちゃん。どうしたんだい。こんなトコロに蹲って」
杖をついたお爺さんが私に話しかけてきました。
私は立て掛けた梯子の元で膝を抱えて蹲っています。
だって私、気付いてしまったから。
「お爺ちゃん……。同じ人でしょう?」
「何がだい?」
「あの男の子とあの少年とあの男の人とお爺ちゃん、同じ人でしょう?」
「おやおや」
それだけ言ってお爺さんは否定も肯定もしません。
ただニッコリと笑います。
「お月さまは萎ませてあげないのかい? いつもあんなに傍にいられるのを楽しそうにしていたじゃないかい」
「だってそうしたらお爺ちゃん、死んじゃうじゃない」
そう。気付いてしまったんです。
私がゼンマイを一巻き廻す度、お月さまは刻々と変化していく。変化を司っているのは私。そうして動くたび、時間は進んでいくんだという事に。
目の前のこのお爺さんを、私はゼンマイを一巻きする度に死に追いやっていたんです。
「それは困るなぁ」
「どうして? お爺ちゃん、死ななくてすむんだよ?」
「そしたら儂の自慢の孫が、今度は成長できなくなる」
そう言うと、いつの間にかお爺さんの腕の中には可愛い赤ちゃんがすうすうと気持ち良さそうに眠っていました。
「お月さまを動かす事はなにも悪い事ばっかりじゃあないよ、お嬢ちゃん。頼むからどうか動かしてくれんかのう」
その言葉と、赤ちゃんの気持ちいい寝息に背中を押されて私は梯子を上っていつもよりゆっくりとお月さまのゼンマイを廻します。
「ありがとう、お嬢ちゃん。きっと今度はこの子が遊びに来るからね」
赤ちゃんを起こさないように、でも赤ちゃんを示すように微かに動かすとお爺さんは去っていきました。
私のすぐ傍にあるお月さまは、さっきとはほんの少しだけ違った形で、でも今日も優しい綺麗な色で私を照らし続けてくれています。
慰めるように。寄り添うように。