鏡
もしも。
もしも、忘れる事があったら
許さないからね。
『忘れて』いるフリをしたって、ずっと、
ずうっと、そばにいるんだから。
それに どこにいたってわかる。
だって、あなたと私は―――
「あ」
私は飛び起きた。
「……っ、」
息が苦しい。それを整えるように呼吸して……そして視界に一条の光を認めた。
私はホッと胸を撫で下ろした。
朝だ。もうすぐ夜明けがこの広い部屋を満たしてくれる。それを思うだけで、こんなに楽になれる。
私は乱れた髪をかきあげた。長くて、うっとおしい髪。
それから無意識に体を確かめた。私の体は、寝汗でぐっしょりと濡れている。
それを感じた途端に無性に気持ち悪くなった。
私はそのままベットから抜け出すと、まだ冷たい絨毯の上に降り立った。
重い意識はそのままに。
もうすぐ15になる頃、私は虚ろな世界の夢を見るようになった。
暗く、どんよりとしたそこには何もなく何も存在していない。
見ているはずの私でさえ、そこに存在しているのかよくわからなかった。
でも『意識』だけはあった。
その私のそばには『鏡』が忽然とあった。
なんの変哲もない姿見の『鏡』。だけど、それは息をしているように白く輝いていた。
それに誘われるままに私はそれを覗き込む。
そこに映っていたのは、10歳の頃の『私』。私に向かって『私』はささやく。
にっこりと愛らしい笑顔を浮かべて……それでも。
どうして、現在の『私』は映っていない?
『鏡』の中の『私』………今の、私は映っていない。
ただ、それだけ。
――そればかり繰り返して、そればかり毎夜見せられる。
私は気がおかしくなりそうだった。
初めはなんの意味もないのだろうと、思っていた。しかし日を追うごとにそれがおかしい事なのだと気がついた。
でも。この広い屋敷の中で、それを誰に相談すればいい?
初めの私のように『悪い夢だよ、すぐ忘れる』と、はぐらかされるに決まっている。
それは、私の中で重い枷になっている。
疲労は日増しに増していく。
クローゼットの中から、私は選択したての寝間着に着替える。
その頃には、暖かな光がカーテン越しにこの部屋を明るくするだろう。
そして、その光とともにメイドが起こしに来る……一日が始まる。
けれど……今日の終わりと共にあの世界が待っているのかと思うと、私は気が滅入ってくる。
「どうぞ、アンナ様」
メイドが淡い色のドレスを着せていく。そしてもう一人のメイドがその間にもプラチナの長い髪を、ブラシで梳いていく。
それは、ちょっとした着せ替え人形の気持ちにさせた。
私はでもその支度があまり好きではなかった。
じっと鏡を見て椅子に座っているのも嫌。
子供ではないのだから、自分で自由に着替えたい。
それに、もっと憂鬱になるのは『鏡』を見る事だった。
等身大の立派な『鏡』。それを見ているとここにいる『私』は、本当の『私』なのだろうかと、怖くなる。
もしかしたらあの世界の『私』ではないだろうか?
すみからすみまで……確かめて、それから安心する。だから、いつも気が気ではなかった。
私はぼんやりと鏡を見つめる。その中で忙しく支度を続けるメイドたち。それをなすがま
まに身を任せている、私が見える―――。
『そばにいるのよ』
(え……っ?)
私は目を見開いた。鏡に一瞬、違和感を覚える。
『わかっているんでしょう?』
無意識に私は顔に手をやった。私は『笑って』いない。
メイドたちは異変に気づかない。
それは変わらないのに……。
『ねぇ?』
クスクス。鏡の中の『私』は、笑っている。
微かな唇のゆがみ。
『わかっているんでしょう?』
「―――めて」
悪い夢の続きかと思った。まさか、まさか……、
『そばにいるのよ。わかっているんでしょう?』
「――めて」
鏡の中のメイドたちの、支度する手が止められる。
どうしたのかと目で訴えている。
『あの時、あなたが私に、』
「やめてえっ!!」
遠くで、鋭い破壊音とメイドたちの悲鳴を聞いた。
我に返った時、視界に映っていたのは鏡の錯乱した欠片とその欠片に所々に映る私の姿。
そして、その隅に転がっている椅子が見えた。
「私」
私がやったの?ぼんやりと周囲を見渡した。
鏡の欠片、化粧道具、メイドたちの私を、見ている目……
「私は、いったい何を……?」
掠れた言葉を吐き出した。
『いったでしょう?何をしたのかって』
呆然としながら私は視線を欠片に向けた。
欠片に映る『私』がささやく。
『いったでしょう?何をしたのかって』
『私に何をしたのかって』
『私を森に置き去りにして』
『とても、寒かった』
『信じていたのに』
『きっと、私を迎えに来て来てくれるって』
『それなのに』
『それなのに』
『誰にも言わずに』
『あなたは、』
『あなたは、私を』
『そして、私は、』
「いやあああああああああああああ!!!!」
きつく目をつぶって私はそれを聞かないようにした。
耳をふさいで、何も見えないようにした。
けれど耳に、あの声が、脳裏にあの姿が、見えた。
「エンヤ……お姉様……」
からからに乾いた声で忌まわしい名前を、つぶやいた。
思い出した。
もう、忘れていたと思っていたのに。
心の奥深くしまい込んでいたのに。
気高く美しい私の、姉エンヤを。
双子というだけで忌み嫌われながらも、エンヤだけは皆に愛されていた。
同じ声、同じ姿なのにどれをとってもエンヤには勝てない。
でも私はエンヤが好きだった。愛していた。
けれど。少しずつ心の中で蓄積されていったエンヤに対する憧憬と嫉妬は、私の中に悪魔を生み出していった。
そして、私はその心の中の悪魔に誘われるままにエンヤを寒い木枯らしの吹くある日に『還らずの森』へと、置き去りにしたのだ。
『忘れたフリなんて許さない』
長いこと忘れていた私にエンヤはささやく。
『あなたは、永遠に私を忘れないのよ。あなたがこの先いくら歳を重ねようと、私はあなたのそばにいるんだから。あなたが私の姿形である限り、ずっと』
砕け散った鏡の中でエンヤが『私』になる。
笑いながら、『私』を見ている。
あぁ、私は。
この顔と一生、離れられない。
そして、思い知るのだ。
己の犯した『罪』と『苦しみ』を。
fin