38.6℃の攻防
俺はほんの僅かな哀しみと寂しさを隠しもせずに目の前の存在にそう呟いた。
「だって僕がただもう一度君に会いたかったんだもん。それが理由じゃ……ダメ?」
対してそう言われた存在は、俺とは反対に無邪気さまで感じさせる声で告げる。
ただ笑って笑って――首を僅かに傾けながら。
それに少しだけ俺は頭を横に振る。
「別にどうとも思わないけどな……。わざわざ自分から殺されに来たなんて正気の沙汰とは思えないだけだ」
それから俺は腰に下げていた鞘から綺麗に光った剣を抜く。
その銀色を見てコイツはますますその笑みを深くした。
本当に楽しそうに。嬉しそうに。
黒光りする銃口をこちらに向けたまま。
「そうだね。僕はきっと最初から――正気じゃないんだよ」
はっきりとそう断言したコイツの台詞の直後、俺はコイツへと向かっていった。
俺は白血球。
主人の血液内を巡る細胞の一つで、主人の敵となるウイルスを排除するのがほとんど唯一の仕事であり、存在理由のモノ。
ある時、その主が風邪を患わせてしまった。
ここ最近季節の変わり目で、身体の色んな部分がついていけないよねーと他の器官も話していたが、その影響がとうとう健康にまで伸びてきてしまったらしい。
幸いにも今回の風邪はどうやら気管が主な影響場所らしく消化器官には影響なかったから、食事という名の物資補給は滞りなく出来るからさっさと片がつくと読んでいた。
まぁ俺たちが動くから、発する熱にはどうしても主人には耐えてもらうしかないのだけれど。
そうして俺が、俺たち白血球が外から来たウイルスと戦っている時、ソイツに出逢った。
初めはもう既に死んでいるのかと思った。
主人の主な被害部分の咽頭の最初部分で、ソイツは全身血まみれでうつ伏せに倒れ伏していた。
深い色のダメージジーンズにも黒いシンプルな長袖シャツにもびちゃりと血が染み込んでいて、逆にここまでよく血が流せるなと感心した位だった。
けれどソイツは生きていた。
ほんの少しだけ上下する背中で、呼吸してるのが分かったから。
試しに抜き身のままだった剣で傷付かないよう程度につついてみる。
「ん……」
反応があった。
そしてゆっくりと上げられる顔。
それに一瞬、呼吸を忘れた。
今この瞬間倒れていたからそんな印象を持ったのではなく、今にも消えてしまいそうな儚さと神聖さを持っていて、とても――とても綺麗だったのだ。
けれど次にはコイツは俺たちの敵であり、主人を害するウイルスなのだと本能で察した。
俺たち白血球には最初から敵か味方か判断できる本能が備わっている。
「……ねぇ君。僕の事、見逃してくれないかなぁ? 僕、もうこんなんだし、きっとあとこの身体の主の咳、一つ二つくらいで外に出ちゃうよ?」
けれどそれは相手も同じで。
相手は――ウイルスは、俺が白血球と分かった上で命乞いを始めた。
俺たち白血球以外にも主人の、というか人間の身体にはウイルスに対抗できる術をいくつも持っている。
確かに目の前にいる死にかけのウイルスは、その術の中の一つである咳をされたら簡単に外へ出て行ってしまうだろう。
けれど俺は白血球で。ウイルスを倒すのが本能で。そんな命乞いなんて聞く義理は本来はないはずで。
なのに俺は一度剣を納めると、救援物資として与えられた傷止め薬と包帯をそのウイルスの目の前に投げ出した。
「え……?」
命乞いをしたのはそっちなのに、まさか本当にこんな事されるとは思わなかったのだろう。
言ったウイルス本人が、まさに鳩が豆鉄砲喰らったような表情をして俺を見上げてきた。
「出て行くんだろう? だったらそれ持って早く出て行け。俺以外に見つかったら、今のお前だったら殺されるぞ」
「え、どうし、て……?」
俺はそれには答えずにまた剣を抜くとウイルスに背を向けた。
それと同時に、まるで図ったかのように主人が咳き込んで、体内にいるウイルスを何十万と追い出す。
その咳に俺は耐えて、それが止んだ後ふと後ろを見てみると――あのウイルスはもうどこにもいなくなったいた。
「何で……、何で抵抗の一つすらしないんだ!」
そして今。
俺の武器に深々とその身体を貫かれながら、それでもウイルスは笑ったままそう言った。
俺がおそらくは飛んでくるであろう弾の軌道を予測して駆け出した時、ウイルスは驚く事にその銃を放り投げて俺に一切の抵抗もせずに刺された。
「君に、殺されたかったから。だからこの体内に戻ってきちゃった」
「あの時、外に出て行くって言ったんじゃないのか? 戻ってきさえしなければお前は無事だったのに」
「だから今、もう一度君に会いたかったって言ったでしょ。君にもらった薬と包帯使って……あとほら、君も知ってるかもしれないけど僕たちウイルスって回復力が半端無いから。もう一度戻ってきちゃった」
「……なんでそんなに俺に執着するんだ……」
「んー? 優しくしてくれたから。一目惚れしたから。好きだから。かな。この身体にとって僕は害だから当然攻撃されるし、外は外で生存競争厳しいしね。ウイルスである僕にあんな優しくしてくれるのなんて、生涯君だけだよ。だからもう一度言うけど、殺されるなら君がよかった」
「………………」
「あぁ、嬉しいなぁ。本当に、君に殺されるなんて嬉しい……」
そしてその言葉を最期にウイルスは笑顔のまま、息を引き取った。
「……俺も一目惚れだったよ」
ウイルスの意識がある時にそう言ってやれたら、どれだけ喜んだだろう。
俺がそう思った時には、まるでその後悔の結晶のように頬に冷たい雫が流れていった。