薄い壁
鍵を差し込んでそっと下ろした時、廊下の床を軋ませて歩み寄る人影に一輝は気づいた。草の着るチャコールグレーのスウェットの上下は、ただでさえ品行方正とは言い難い彼の外見を更にガラ悪そうに見せている。
「なに、一輝どっかいくの」
「コンビニ。お前、声でかい」
学校帰りの道端じゃねぇんだぞ、足音も気をつけろ、と一輝はその無遠慮な振る舞いを嗜める。
おぉごめん、とさも悪びれず謝る草の声は過剰に小さかった。態度を小さくしているつもりなのか、猫背になりながら近寄ってくる。
こいつはほんと阿呆だな……。
加減を知れ、と呆れる一輝へ、彼は矢継ぎ早に問いを重ねた。
「って、今から出るの?」
「そう。やっとチビどもが寝たからな」
保育園児と一緒の時に買えるものじゃないだろうと伝えると、草は意を得たとばかりに目を見開き、何度も頷いた。
「あ、じゃあ俺も金半分出した方がいいよな」
でさぁ、前言ったっけ、俺ポツポツなってるやつあんまり好きじゃねぇんだ。あと水性ゼリー?アレやだ、すぐ乾くから。
草は基本的にやたらと注文が多い。妙なところで神経質なのだ。
まぁだからこそあれだけ上手い料理が作れるんだろうけど今はそういう話じゃねぇし、と一樹は彼のかさついた唇を見ながら思う。
「金は後でいいわ。つーかそんな心配する前に、ボロアパートでなりふりかまわず声出すその性癖をどうにかしろ」
「バッカてめぇいきなり変なこと言うなよ、誰かに聞かれたらどうすんだ」
歪めた口の前に人差し指を立て、必死の形相で草は講義する。頭のてっぺんで結わかれた前髪が体の動きに合わせて揺れた。馬鹿みたいに明るい空色のヘアゴム。
「だから真っ最中にそう思えよ、俺が声我慢してる意味がねぇだろ」
「いや、それは無理」
反論虚しくすっぱりと言い切られてしまった。草はこんな時ばかり潔い。一輝も一輝で、、まぁ今更だよな、とすんなり諦めてしまうのだが。
今まで幾度となく注意してきたけれど、草のこれだけはどうにも直らないらしい。
ここの管理人をしているのは、一輝の祖父だ。そういう意味でも、ひゃんひゃん喘ぐ草の性癖は、あまり……というか相当よろしくないことだ。それは重々分かっているのだが、なんとなく強く言えないでいる。
そもそも体の関係に持ち込んだのは一輝の方だ。
もし何かの弾みで機嫌を損なって、こいつとヤれなくなるのもこいつの飯が食えなくなるのも嫌だし、それに……。
普段の低めな声が上ずりだす瞬間の沸き立つような色気は、なかなか悪くない。
こないだなんて目の焦点がちょっとアレだったよなぁ、とある夜の痴態を思い出せば、廊下を歩く一輝の姿勢は気持ち前かがみになってしまうのだった。
「ま、とりあえず、ソッコーで行ってくるわ」
「帰ってきたらうちに来いよ。どうも腹減ってしょうがねぇから、さっきその辺にあるもんで適当に夜食作ったんだ」
どうやら草は一輝を呼びに来たところだったらしい。上手いこと廊下で鉢合わせたのを一輝はありがたく思う。草のガサツな動きでチビどもが目を覚ましたら面倒だ。
「親父さん今日いないの?」
「帰らねぇってよ。まったくあのドラ親父は……」
草の父親は態度もガラも目つきも悪く、不良がそのまま大人になってしまったようなところがある。
普段の彼らの間には絶対の主従関係が成立しているようなのだが、その服従ぶりを棚にあげて毒吐く草の虚勢が一輝には微笑ましい。
「ふぅん、ドラ親父か。今度三枝さんに伝えとくわ」
「え、いやちょっと待てって、それはやめよーぜ」
頼むよ一輝くぅん、そのあたりはさ、ねぇ。うちの家庭事情も推し量っていただきたいわけ。
頭の後ろから届く懇願の声をはいはいとあしらいながら、一輝は下駄箱に手を伸ばし普段履きのオールスターを取り出した。