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遠く轟く雷鳴のように~この翼、もがれども~

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1.月影



闇深くに抱かれて眠り見るこの夢は、

遠く果て無き過去か未来か。


いずれも通り過ぎてゆくものであるならば、

大した差異はないはず。

それでも呻く心。

届かぬとて、叫ぶ声。

輝く光は遠い……。




【 遠く轟く雷鳴のように~この翼、もがれども~ 】




 四方を茫洋と広がる大海原に囲まれ、荒れ狂う波を見下ろすように建てられた洋上の古い宮殿。巧妙に隠された眠る茨の如く佇んでいた。その宮殿を所有していたのはアフロディーテであり、幾年月を茨の檻に囲まれ、いや、茨によって侵入者から守られ続けた眠り姫のように闇の目から隠されていたのはシャカ。
 鉛色の空からは白い雪が、そして断崖絶壁からは荒波から這い上がってきた冷たい風が綯い交ぜになって、うねりながら容赦なくバルコニーに佇む白い人影に吹き付けられていた。
 凍えた風は剣となって絹糸のようなしなやかに輝く髪を無造作に絡み取り、幾度も引き裂いていたが、白い影はまったく恐れる節はなかった。
 その神秘性から畏怖され、今もなお恐らく黄金聖闘士中でも最強であると思われている男。到底そんな風には見えない、細すぎる後姿――シャカ。
 希薄な空気に覆われた薄暗闇の広間からその後姿を眺めながら、仮面の奥底で薄い笑みをサガは浮かべ、シャカの内心を図っていた。
 月影に隠れた太陽のようにひっそりとその身を潜めていたシャカ。その彼は突如音もなく現われた『教皇』の気配に戦慄し、絶望の眼差しで断崖を見下ろしているのか。それとも腹を決め、覚悟の眼差しを手向けているのか。
 いずれにしろ、闇の手から逃れる術はないことを聡明なこの男のこと。わかりきっているはずである。それでも振り返ることもなく、無言を貫き幾許か躊躇するのは矜持によるものか、正義によるものか、と。

 すでに砕け散ったはずの魂にすら、すがろうとしている哀れな生き物――。

 まるで、その有様は映し鏡のようだとさえサガは思えた。
 ただ薄められていく正義の自我。今の自分は白き夜のような存在なのか、それとも黒き昼なのか……それすらも判断がつかなくなっていた。
 嘲笑ったのを感じ取ってか、長い間無言のままで後姿しか見せなかったシャカがようやくの時を経て、薄い黄金色に輝く髪を風に煽られるままに流し、わずかに蒼褪めて見えた白い背中を振り返らせた。
 堅く閉ざされた瞳が何色であったのか、もはやサガの記憶にはなかった。それでも息を呑むほどに雲の切れ目から時折零れ落ちる光のような美しい面差しがあった。
 あの月の光さえも届かぬ闇の中。ただ遠く響いた雷鳴のように感じていたシャカの存在。暗黒の精神に捕縛された生贄の如く、ただ哀れな脚折られた小鹿のようだと思っていた。うっすらと浮かび上がるサガの記憶にあるシャカは未発達な少年の美しさであったが、今目の前にあるのは何人をも寄せ付けぬ、触れることを許さない、鋭く尖った刃のように鬼気迫るものであり、美しさを余すことなくサガに突きつけていたのだった。
 ほんの短い時の流れでさえも、少年を大人へと導くには十分であったのだろう。完成された芸術品のようなシャカを前にわずかな動揺を覚えたサガは「アフロディーテめ……」と唸った。
頑なにシャカの居場所を隠し続けていたアフロディーテが今頃になってあっさりと秘密を暴露したのはこういうことか、と合点がいった。

「このようなところまで来るとは……余程、聖域は平和らしい。教皇よ、アフロディーテは健在かね?」

 風に乗って届いた鈴鳴る声は招かざる来訪者に対して微塵も動揺することなく、むしろ予見していたかのように落ち着いた調子で当たり前のように訊ねた。そして暗黒の精神を刺激するようにどこか挑発的な響きもあった。

「ほう?てっきり、ここで長きに渡り、アフロディーテに可愛がられていたのかと思っていたが?」

 『教皇』としての威光を放つように地を這うような低く落とした声を聞き届けたシャカは口角をわずかに上げるだけの笑みを浮かべた。肯定も否定もしないといった具合に。そんな他愛ない所作のひとつひとつにさえ、透明な鈴の音が響いてきそうなほどであった。そしてシャカは何かを探るように首を傾げ、さらさらと金糸の髪を方から滑らせながら、「なるほど」と納得したように小さく呟いた。何を納得したのか――怪訝に思うがそれを確かめる術をサガは見失っていた。
 一定の距離を保ったまま互いに動かずにいたが、シャカは衣擦れの音を伴いながら徐に前へと進み始めた。結果、サガとの距離はどんどんと短くなる。手を伸ばせば届く位置まで近づいたときシャカはようやく立ち止まった。
 やや見下ろす程度の背丈にシャカは成長してはいたが、肉付きは薄く、戦いを生業にしているものとは思えぬほど肢体は華奢なものであった。

「――初めまして、というべきか。それとも久しぶりというべきか……私の薄れた記憶には存在しなかったあなたの名。それをアフロディーテは教えてはくれたが。しかしながら彼に可愛がられた覚えはない。そう……なるほど。あなたが……サガか?」