彼女の爪
子どもたちの中で、彼女の姿は目立っていた。いわゆる、ギャルというやつだ。
素顔がわからないほどの化粧。まばたきすると真っ黒な目の周りから風が起こりそ
うなそのファッションは、都会ではずいぶん前に廃れた格好。流行に時差があると
はさすが田舎だと変なところで感心した。
毎月15日は囲碁の日なので無料体験デー。この日ばかりは人手が足りないとの
ことで、頼まれもしないのに叔父が主催する囲碁教室の手伝いに東京からはるばる
やって来た。
「受験勉強はどうするのよ」
顔をしかめる母には気分転換だと言い張った。かまうもんか。ついでに何日か滞
在させてもらってのんびりするつもりだ。いっそ帰らずにここにいたい。浪人生が
気楽だなんて大嘘だ。いつだって肩身の狭い思いをしているんだから。本当に。
「普段はヒマなんだけどね」
受付で子どもたちに対局カードを渡しながら、叔父が苦笑した。
「15日だけは混んじゃって。手伝ってくれて助かるよ」
僕のことを甥っ子だと碁会所中に紹介してまわった叔父は、忙しいせいかなんだ
かハイテンションになっているようだ。
そんなに囲碁が人気だとは知らなかったが、よく見ると子どもたちは勝手に冷蔵
庫を開け、無料のジュースをガバガバ飲んでいる。目当てはそれか。まともに対局
しようという子は何人いるんだろう。そう思いながら初心者を集めた一角に向かう。
幼稚園児みたいな子もいる中で、ギャルメイクの彼女は不思議な生物みたいに見え
た。
「えーまず、囲碁は白と黒が一手ずつ交互に打ちます」
とりあえず、基本的なルールから説明を始める。だがしかし、どいつもこいつも
聞いちゃいない。碁笥の中で碁石をかき回してジャラジャラ言わせたり、あげくの
果てには落としたり。おはじき代わりにする程度なら可愛いものだ。
基本的なルールなんて言っていてもどうにもならなくなってきたので、実技にう
つることにする。習うより慣れろだ。カッコよくビシッと打てれば、囲碁自体にも
興味が出てくるかもしれない。
「それでは、碁笥の中で碁石をつまんでください。それから人差し指の爪に乗せる
感じで中指と挟んで」
「無理」
説明はあっさりと遮られた。出鼻をくじかれて唖然とする。声の主は僕に向かっ
て右手を出した。
「ネイル剥げるし」
知るか。だいたいなんだその爪の色。無駄にキラキラさせやがって。剥がせ剥が
せ、剥がしちまえ。
などと言えるわけもなく、僕は碁笥の中に手を突っ込んで、さっきの幼稚園児の
ように意味もなく碁石をかきまわした。石の冷たい感触が、少し僕を冷静にしてく
れる。
気にするな、頑張れ自分。どうせ相手は無料体験の冷やかしだ。
持ち方にこだわるのはやめて、早々に対局することにした。ちびっ子たちは既に
飽きてジュースを飲みに行ってしまったので、ギャルメイク女と差しで勝負だ。い
や、大人げないことを考えまい。全滅させたいとか思ってないよ。指導碁なんだし。
ところが、持ち方はともかくとして、いざ対局してみると、彼女は真剣だった。
一通りルールも知っているようだし、かなりの負けず嫌いのようだ。時々とんでも
ない手を打つ場面はあったけれど、筋も悪くない。人は見かけによらないとは、こ
のことだ。
結果、何局も彼女の相手をすることになり、しまいには僕のほうがバテてしまっ
た。言い訳のようだが、指導碁は上手のほうが疲れるんだ。初手から並べなおして
の説明を彼女は聞いて、唸るように言った。
「一度も勝てなかった」
うう、申し訳ない。頭の中で数えながら打っていたのに、僅差で僕が勝ってしま
った。これは僕の力量不足だとしか言いようがない。残り少なくなった冷蔵庫のジ
ュースを勧めたが、それすら飲まずに彼女は帰っていった。
ちょっと大げさでも、負けてやれば良かったかな。いやでもそれは相手に失礼だ
し。そんなことをずっと考えていて、叔父に心配されてしまったのが昨日のこと。
明けて16日。驚いたことに、今日も彼女はやってきた。心なしか昨日よりメイ
クが薄くなっているようだ。
「お願いします」
「お願いします」
対局を始めて気づいた。彼女の爪がキラキラしていない。きちんとマニキュアを
落としてきたようだ。自然な色の爪に一瞬見とれていたら、ぎこちなく碁石をつま
んだ指が、ピシリと鋭い手を打ってきた。
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【ついのべ投稿したものはこちら】
碁石は人指し指の爪の上に乗せて、中指で挟む感じで…説明の途中、彼女は、無理、
と言った。ネイルが剥げちゃうわ。無料体験の冷やかしか。だが対局してみると、
真剣な眼差し。負けず嫌いと見た。筋も悪くない。そして彼女は今週もやってきた。
マニキュアを落とした爪が初々しい。
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