嵐の環・台風の虹彩(酒井貴裕)
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「納得できません」
女は幾分強い口調でそう言ったが、そのあどけなさが坂上には心地よかった。
「耳とどう関係があるんですか?」
彼女は話そのものに対しては特に疑いの言葉を投げなかった。坂上はますます彼女をいとおしく思い始めた。
坂上の氷も少しずつ泡を失いだしていた。彼はそれを聴き、要はこういうことなんだよ、と言った。泡を聴くようなことだったんだ、と微笑みを投げた。
「当たり方がよかったんだ。反射で避けようとしたから左肩だけ当たって列の右側、こちらから見て右側に思いっきり吹き飛ばされたんだ。そのあとは昏睡状態だったらしいよ――らしいよっていうか、変な話だけどその間の記憶が今も残ってるんだ。自分の体内の音を聴いてたんだよ、意識して聴いてた記憶があるんだ。自分の血の音がまず響いてきて、ね、うるさくても慣れちゃうんだよ、雨音みたいなもんだね。それでずうっと聴いてると次にそれよりも少し小さな音が耳に付いてくる。耳で渦巻き管や鼓膜が揺れる音、胃液が流れる音、何かが溶ける音、血の中のいろんな小さな粒が栄養素を掴むときの音、手渡す音――信じられないだろうけど、順を追ってけば聴けるんだ、本当だよ。現に十二年眠ってたんだから」
彼女はぴくっと顔を一瞬ひきつらせて、それから目をぱっと見開いて「嘘言わないで」と呟いた。
「いや、自分でも最初はそう思ったけどその頃にはテレビもあって、歌番組なんか二ルソンとかバッドフィンガーの話してたし、いろんなものが新鮮だったんだけど、耳が思いっきり痛くってさ。そもそも目覚めたら変な抗菌みたいな真っ白な壁の部屋に寝かされてて、周りに人とか物とか何にもなかったんだけどニルソン登場のアナウンスとか拍手が飛んできて、何だろうこれは、なんて真面目に面喰ってたよ。なんか大きな病院にいたみたいなんだけど、ロンドンだったんだ。興味深い患者云々言われててそのせいで担ぎ込まれたんだろうけど、変なことに巻き込まれる前に逃げたよ、それでムシャンガに会いに行ったんだ」
「会いに?」
女はここまで静かに坂上の話に耳を傾けていた。信じているのかいないのかは傍目には分からない表情だったが、ここで話をふと遮った。
「彼女、死んでたよ」
彼女はさっきとは逆に「嘘」と言ってから目を見開いて黙っていた、その肩は寒そうに小刻みしていた。
「彼女、嘘の年齢教えてたんだ。言ったよね、村じゃあみんな五十歳は若く見えてたって――病気でも何でもなかったんだ、老衰だったんだよ、百十五歳の大往生さ。凄いだろう? あの時代、アフリカじゃなくてもあれだけ生きた人っていなかったんじゃないかな」
彼女は何も言わなかった。彼女を震わせているのは寒さでも恐怖でもないことを彼は手に取るように分かっていた――「横になるといい。そんな目を見せた君の負けだよ」
瞳の竹林は風の中だった。
作品名:嵐の環・台風の虹彩(酒井貴裕) 作家名:早稲田文芸会