嵐の環・台風の虹彩(酒井貴裕)
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「いや、骨とか皮って言うよりむしろ干物みたいなものだね、今は」
「ねえ、おじいさんどうしてそんな小声でお話しなさるの?」
閉店の二分前に最初の客が来た。二六時、もう閉めるんだとは言わない、女の目にはどこか彼の興味を引くものがあった。無気力な公園の鳩にも嫉妬心を植えそうな煌めきがあった、竹林のたおやかさを湛えた瞳だった――そのくせ平気で嘘をつきそうなのはなぜだろう、裏腹の騙されやすそうな幼さはどこから来るのだろう。坂上はカナディアンクラブのロックを二杯作って女と乾杯した。ぼんやりした手つきでウェス・モンゴメリー『フルハウス』を針に掛け、ごくごく小さな音量で流した。
「どうして、どうしてそんなにお絞りなさるの?」
「私にはこれで十分なんだよ」
坂上は口元に意地悪な笑みを下げ、「声、囁くくらいでちょうど、だよ」と付け加えた。
女の指はそのショートヘアーに一度も触れない。グラスを持たぬほうの指は少しだけ曲げられて自身の頬に軽く当てられている。人差し指は心持高く、親指の腹は中指の第一関節の側面に触れている。坂上はそれらから放たれた直線が緩やかに目元に至る道程にじっと見惚れていた。坂上の前髪は長く、女にその目線は読み取り難い。もっとも女は彼の目線には何ひとつ関心のない様子で伏目をふらつかせていた。何も考えていないのかと思うたびにふと女の瞳の揺らめきが深みをちらつかせ、彼は畏敬の念に似た不思議なしこりを胸に覚えるのだった。
「耳がいいんですか?」
彼女はグラスの指に訊いたようにも見えた。
「昔はもっと利いたさ」と彼はその指を見つめた、「街角に出たときなんかひどかったよ、遠くの車に近くの車、ガラス越しの会話さえ届いてきたんだから。その鼻息までもね」
「嘘みたい」
「耳が割れそうさ、この今もね」
共演のジョニー・グリフィンのテナーばかり追いかけている、吹き込むときの唾が管をすべる音、脇で弦がちぎれそうにきしる音、手から魚が逃げそうな不安と隣合わせの気分で聴いている。
「もっと小さな囁きでいい」と指を諭しながらまた音を絞った。
音楽だけが流れる。テナーサックスは深夜に優しい。彼は口笛で小さくハミングする。彼女の瞼がふっと反応する。坂上は何となくうれしくなり自分でも耳が痛くなるほど、喉が苦しくなるほど口のヴォリュームを上げる。彼はふと自分を好きになれそうな気がした。こんなにもひたむきで健気な気分が可愛らしく思えた。大きく笑ってもいい気がしたが、つまらなそうな彼女に悪い気もして口元を緩めるくらいに留めた。
彼はずっと彼女の指を注視していたが彼女は一度も視線を上げなかった、うつむきは徐々に水深を増していくようでさえあったが眠たげであるようにはまったく見えなかった。真夜中に薄暗い部屋で、聞こえるか聞こえないかの音楽が流れる中で、アルコールを身に注ぎながらよく分からない老人を前に眠くならないほうがおかしい気はしたが、彼は彼女の有りさまが眠気によって形作られたものでないといういい加減な確信があった。彼をそう駆り立てていたのは彼女の瞳に浮かんだ少しばかりの珍奇な輝きだった。人を感動させ感傷的にもさせうる彗星を思わせるちらつきだった。
レコードには聴衆のざわめきが枯葉のように混じっている。誰もいない公園を連想してしまう。
「眠れなくて困ってるんです」
彼女は視線を上げない。
「うるさくしたなら、悪かったよ」
坂上はグラスを自分の耳元に持ってゆく。昔なら氷がその内側でミクロの単位で泡立つ音も聞き取れたが、今はそれも叶わない。下品な飛礫の行進が恋しい。ウェスのアドリブが炸裂し、坂上は変に取り残されたような気分になった。一気に傾けたくもなったが彼はその気を切り捨てて数分グラスを耳元に捧げ続けた。やがて諦めそれを下ろしたとき、彼は女が自分の一連のそぶりを注視していたことに気づいた。
坂上はまともに女の煌めきと対峙した。井戸のような、渦巻く星雲のような果てしない印象を彼に投げかける瞳の吐息があった。
「何か、何かあったんじゃないんですか? どうしてそんな耳になったのか、聞かせてもらえませんか?」
彼女はそう彼に囁きかけた。遅れて「知りたいんです」と付け加えた。
彼女の氷は溶けきっている。
「昔、アフリカに行ったせいさ」
坂上は星雲の奥を凝視した。
「アフリカ?」
彼女はどうも解しかねるといった様子で反芻してきた。坂上はそれがたまらなく嬉しく思われた。
「若い頃にね」
「どんなとこだったんですか?」
彼の脳裏に真っ先に浮かんできたのは始終まとわりついてくる蠅の羽音だった。もし指に火を灯せるなら蝋燭のサイズで、絵を描くように焼き払ってやりたいと彼は常々思ったものだった。
作品名:嵐の環・台風の虹彩(酒井貴裕) 作家名:早稲田文芸会