薊色花伝
ふわふわと。
やわらかな日差しが、あたしの頬を撫でていく。
四月の午後、春眠暁を覚えず。それどころか、黄昏さえもままならないほど。ふわふわと心地よい身体の沈み具合と、疲弊した脳に思考。目を閉じれば薄い暗闇。
喧騒が遠い静かな部屋の中で午睡を嗜む。足許に放り出した鞄が少し邪魔で、こっそり足の脛で押し出す。
「――仙、翠仙ってば」
そう、あたしの睡魔を邪魔するものは何もない。唯一、誰かが淹れた紅茶の香りが鼻をくすぐるけれど――
「聞こえてるんだろう? 翠仙」
そのうちに、遠くにあったはずの声がすぐ側まで近寄ってきて、夢が遠ざかったのかと錯覚するものの、どうやら耳元であたしを呼ぶ誰かがいるらしい。
勿論、誰か、なんてここには他に一人しかいないんだけど。
ああ違う、一人じゃなくて、厳密には一匹。
「いい加減起きてよ。もう夜だよ。それに、眠いなら上に戻ってちゃんと布団で寝るべきだ」
「あーもう、うるさいわね。ソファが気持ちいいんだから放っておいて」
薄く目蓋を開いて、ロクに彼の顔も見もしないで反論する。ちらりと見えたのは相手の琥珀の眼が困惑色に染まっている様子だった。
セーラー服のまま、用意周到携帯済みのブランケットを布団代わりに引き上げる。ごろり指定鞄が転げ落ちる気配がしたけど、落下する音は続かなかった。助手が拾い上げたに違いない。
翠仙、と、根気よく呼ぶ声に免じて顔を上げる。
「それに。あたしはここの社長なの。何処で何しても自由。違う?」
一瞬だけ、面食らったような顔つき。それからすぐに、嗚呼、と溜め息。なにやら芝居がかった仕草で少しの間天井を見上げてみたりして。
「なんか段々分かってきたよ。もしかして、今までは猫被ってたのかな」
「お互い様でしょ」
ふふん、と得意げに鼻で笑えば、彼も負けじと口角を上げる。
「残念ながら僕は狐だからね」
「それならあたしは、さしずめ虎ってとこかしら」
「虎の威を借る何とかって?」
遣り取りの隙間に沈黙。次の出方を伺うお互いに気づいて、思わずくすりと吹き出す。
そうね、虎も猫も同じなら、せめて心だけでも虎にならきゃ。
きっと萎縮してるだけじゃ、この仕事は勤まらない。まだ半人前でも、正式な社長じゃなくたって、他所から見ればあたしもここの社員なのだから。
そして、虎の前にはいつも狐。
来客を知らせるベルが鳴る。助手がそれよりも早く立ち上がって、応接室の扉を開く。
「翠仙。下にお客が来てるんだけど、通してもいい?」
再び覗き込むその横顔に、あたしはやっとソファから身体を離す。
猫のように転寝から抜け出して。
彼の、常葉の引き連れる来客に笑顔を返す。
その一言が、あたしの――あたしたちの、本当の第一歩だった。
「――いらっしゃいませ。あやかしごと承ります。薊堂へ、ようこそ」
《終》